モンゴルの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 19:42 UTC 版)
1636年、ゴビ砂漠南のモンゴル部族が清朝に臣従したが、砂漠北部のハルハ部は独立を保っていた。ハルハ部族は、ゴビ砂漠の東北を受け持つ左翼と、西南の右翼に分かれながらも連携し続けていた。独立を保つため、1640年にハルハ・モンゴルの領主13人とオイラトの領主15名が集まり、モンゴル・オイラト会議を開き、同盟を結んだ。とはいえ、ハルハは清朝との友好関係にも苦慮した。ハルハ左右翼4名ずつの領主が清からジャサク(旗長)に任命された。そうはいっても、実質的にはハルハは清の支配に入っていなかったので、彼らは外(がい)ジャサクと呼ばれた。 ハルハ左翼の領主は、ザバイカル地域のブリヤート人に貢納させていた。 だが、1654年には、ロシア人がザバイカルのネルチンスクに要塞を建設し、続いて、1665年にはセレンギンスク、1666年にはウダの冬営地を建設したため、ハルハ・モンゴル人はロシアに抗議した。1672年、ハルハ左翼の宗主トシェート・ハーンがモスクワに使節を派遣し、貢民のブリヤート人を返すよう要求したが、ロシア側の回答は、彼らは50年以上前からロシアに毛皮税を払っているというものであった。
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