高麗の分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:16 UTC 版)
1269年10月、林衍の乱の原因となった親モンゴル派で都統領の崔坦らが、西京(平壌)を中心とする西北面50城を領して、高麗から分離し元に帰属した。クビライは西京を「東寧府」へ改称し東寧路を置いた。またその北の遼寧平原の瀋州(瀋陽)一帯は先に降伏していた洪福源らの1族が統治していた。 一方、林衍一派の残党である裴仲孫(ペ・チュンソン)は残存勢力を集め、高麗王室の傍流にあたる王温(朝鮮語版、中国語版)を擁立して江華島を脱出、半島西南部の珍島を根拠として「高麗国」を自称した。 これら高麗人が別々に構成した4つの勢力(北から順に洪福源・崔坦・元宗・珍島)をまとめて統治するため、クビライは行中書省を置き、クルムシ(ムカリ国王家)を長官に据えた。クルムシの勧告を受けて元宗は江華島を退去し、開城に還都し、ここに約40年にわたった江華島政権は終了した。
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