モンケの分撥とは? わかりやすく解説

モンケの分撥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 14:47 UTC 版)

投下 (モンゴル帝国)」の記事における「モンケの分撥」の解説

オゴデイ死後モンゴル帝国ではオゴデイ家トゥルイ家の間での帝位争い激化し数年わたって最高権力者不在の状態が続いた。短いグユク治世経てトゥルイ家モンケ即位すると、モンケオゴデイ時代その後権力闘争時代弛緩した帝国体制引き締め図ったモンケ即位当初より帝国全土一律行政制度税制度を施工することを目指しており、その一環として帝国全土対象とした人口調査実施した。 まず華北では、かつて中央アジア人口調査行ったマフムード・ヤラワチ首班とする再度人口調査実施され、翌1252年壬子)に新たな戸籍作成された。この時作成され戸籍は「乙未年籍」との区別のため、同じく作成年の干支基づいて壬子年籍」と呼ばれる。この時の人口調査では新たにトゥルイ系の諸王投下与えられたが、その中で大規模なものがモンケ2人の弟、クビライフレグ与えられ懐慶路彰徳路であった。この投下それぞれ遠征軍司令官任じられクビライフレグの、後方補給基地となるものと想定され与えられたものであったまた、この時の分発では今まで投下与えられていなかったオゴデイ家王族らにも新たに投下領が与えられた。しかし、その実数は一人あたり数千人ほどと少なく、「オゴデイ・ウルス」という枠組み解体しその勢力減退させるモンケ意図があったと見られる中央アジアにおける人口調査は、前述したように記録少なくどのような規模経緯行われたかは定かではない。ただし、唯一ワッサーフ史』のみはモンケの治世ブハラ新たに人口調査が行われたこと、その取り分投下)が皇帝モンケ)とその母ソルコクタニ・ベキ、そしてジョチ家バトゥによって分割されたことを記録している。この記録により、詳細不明なものの中央アジアにおいても東アジア同様に新たな人口調査が行われ、新たに確定され人口投下として分配されたと推定されている。 西アジアでは、「阿母河等処行尚書省モンゴルイラン総督府)」の首班であるアルグン・アカ中心として人口調査実施された。アルグン・アカフレグ西アジア遠征軍出発の僅か1カ月前(1253年8〜9月)にカラコルム発ち遠征軍到着する1255年末までに既にモンゴル制圧にあったホラーサーン地方マーザンダラーン地方・イラクアジャム地方・アーザルバイジャーン地方人口調査終えた遠征軍到着によってイラン総督府はフレグ指揮下に入り事実上解散となったが、アルグン・アカ引き続きグルジア地方人口調査行った。『元史』巻3憲宗本紀には1256年丙辰)冬にアム河のムスリム回回)の降ってきた民を諸王百官分け与えた([憲宗]六年丙辰春…冬…以阿木回回降民分賜諸王百官)」と記されており、華北同様に人口調査終えた民が「投下領」として諸王功臣与えられているが、その詳細な内容記録残されていない同様にクビライによる征服並行して人口調査が行われたのが雲南地方であったクビライによって減ぼされた大理王国カラジャン地方)と、その周辺諸民族(チャガン=ジャン地方等)はすぐさま人口調査が行われ、1255年乙卯)までに他の征服地と同様に万人隊・千人隊編成された。『元史地理志には雲南地方の完全平定後、この地方には19万人隊(万戸府)が形成されたと記録されている。大元ウルスの時代には、この時雲南地方設置され万人隊・千人隊基づいて路や州が設置され、現在につながる行政区画となっていく。 また、チベット方面においても人口調査万人隊の設置が行われ、チベット語史料ではこれを「チベット13チコル(チコルはトゥメン万人隊の意)」と呼んでいる。同じくチベット語史料によると、チベットには27ジャムチヤム)が設置されとされるが、これもジュヴァイニーが「1つヤムにつき2つトゥメン割り当てた」という記述合致するまた、モンゴル諸王チベット仏教各宗派施主帰依処関係を結んだとされるが、これはその宗派属す万人隊=チコルを投下として与えられたことをチベット史上文脈から言い換えたのであるモンゴル帝国領内で最も人口調査実施遅れたのが、ジョチ・ウルス支配するロシア方面であった。『元史』巻3憲宗本紀には1253年癸丑)に人口調査命令されたと記されているが、ロシア語年代記には人口調査1257年から1259年にかけて行われた記されている。このようにロシア方面において人口調査遅れたのは、バトゥカアン介入を好まなかったこと、バトゥ死後サルタク・ウラクチら短命君主続いたことが原因であると考えられている。その結果ジョチ家領地のみには行省設置されなかった。ジョチ・ウルスが他のウルス比べて独自の要素が多いのは、この時力アン介入拒み行省設置されなかったことに由来する考えられている。 以上のように、モンケの治世下においてモンゴル帝国全ての支配地域において人口調査が行われ、十進法に基づく人口整理(=万人隊・千人隊設置が行われた。このように帝国全土実施され人口調査将来的帝国全土の民をモンゴル王侯の間で再整理する(=投下領を分配する)ことを目的としていたと考えられている。しかし、他ならぬモンケ急死したことによってモンゴル帝国内紛起こしモンケ意図した所は実現されることなく終わってしまった。

※この「モンケの分撥」の解説は、「投下 (モンゴル帝国)」の解説の一部です。
「モンケの分撥」を含む「投下 (モンゴル帝国)」の記事については、「投下 (モンゴル帝国)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「モンケの分撥」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「モンケの分撥」の関連用語

1
2% |||||

モンケの分撥のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



モンケの分撥のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの投下 (モンゴル帝国) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS