モンケ・カアンによるタンマチ解体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:25 UTC 版)
「タンマチ」の記事における「モンケ・カアンによるタンマチ解体」の解説
1241年にオゴデイが死去すると、モンゴル帝国では時次代のカアン位をめぐってオゴデイ家のグユクを推す派閥(主にチャガタイ家とオゴデイ家)とトルイ家のモンケを推す派閥(主にジョチ家とトルイ家)の間の対立が深刻となった。皇后ドレゲネの工作によって一時はグユクが即位を果たすことができたものの、グユクがわずか3年の治世でなくなると今度こそモンケが第4代皇帝として即位することになった。グユク政権はオゴデイ政権の体制を概ね踏襲したためにタンマチ制度もほとんど変化を被らなかったが、モンケの治世にはオゴデイ時代の曖昧・放埒であった諸制度の一掃を目指す中央統制強化策の一環としてタンマチ制度にも大きな変革が加えられた。 即位直後の1252年よりモンケは華北地方において戸籍調査を実施したが、その際にタンマチ兵員の多くが従来の「種佃戸」や「駆口」から「民戸」へと登録替えを行われ、従来とは異なり納税義務を負うことになった。モンゴル軍では兵員の遠征費用は自弁が原則とされているため、この措置はタンマチの軍団としての財政基盤を奪ってしまうに等しいものであった。同年、モンケはオゴデイが東アジア一帯に配置した「蒙古・漢軍(=タンマチ)」を両淮地方・四川地方・チベット地方ごとに3軍団に再編制し、「両淮等処蒙古・漢軍」はチャガンとイェルゲンに、「四川等処蒙古・漢軍」はタイダルに、「土番(チベット)等処蒙古・漢軍」はコリタイにそれぞれ率いさせ長江以南の南宋と対峙させた。一方で、陝西方面タンマチを率いて居たアンチュルのようにチャガタイ家と縁の深いタンマチ指揮官は更迭されて前線から遠ざけられた。 その後、1253年のクリルタイではモンケの次弟クビライを東方方面(大理・高麗・南宋・越南)の遠征軍司令官に、三弟フレグを西方方面(アッバース朝ほか西アジア諸国)の遠征軍司令官に任じることが決定された。それと同時に、『集史』「フレグ・ハン紀」によると「それ以前に『イランの王国に居住せよ』とてバイジュおよびチョルマグンとともにタマとして送られていた軍勢、またダイル・バートルとともにカシミールとインドの方面に派遣されていた軍勢は、全てかのフレグ・カンの所属である」とクリルタイによって定められており、これ以後イラン方面・インド方面といった西方に派遣されたタンマチはフレグの指揮下に入ることになった。 総じて、モンケは既存のタンマチの体制を解体した上で新しく編成したクビライ・フレグの遠征軍に組み込み、新たな軍団制度の確立を目指したものと言える。以上のような施策はオゴデイ家勢力を弾圧するモンケ・カアンが、オゴデイの功績たるタンマチを解体・再編する意図の下行われたものと考えられている。しかし、モンケは1259年に親征先の四川で急死してしまい、モンケの構想は瓦解してタンマチは解体されることなくモンゴル帝国各地で存続していくことになった。
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