コデン家の盛衰とは? わかりやすく解説

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コデン家の盛衰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 08:00 UTC 版)

コデン」の記事における「コデン家の盛衰」の解説

コデン死後彼の子孫たち自己の領民トルイ遺領から分与された縁もあってトルイ家との間に密接な関係を持ち、第4代カアンオゴデイの子ではなくトルイ長男モンケ立てた政変において、オゴデイ一門唯一モンケ支持する側に回ったこのためコデン家モンケ即位によってオゴデイ家およびその同盟者であるチャガタイ家弾圧されたときも全く影響被らず甘粛地方勢力保った。 しかしモンケ漠南漢地総督としてゴビ砂漠以南支配委ねた弟のクビライ京兆現在の西安)を中心とする陝西地方与えコデン家河西所領引き続き安堵されたが、以後はこのクビライ影響下に置かれることになる。モンケ即位協力したコデンの子モンゲドゥは、1253年行われたクビライ雲南・大理遠征参加している。1259年モンケ死に始まるハーン位継承争いでは、モンゲドゥの兄弟ジビク・テムルクビライの側につき、モンケ兄弟末弟アリクブケ支持する勢力甘粛地方舞台激し戦い繰り広げている。 クビライカアン即位して大元興すと、ジビク・テムルおよび彼の甥イリンチンは、クビライ敵対するチャガタイ家ドゥアらと干戈を交えた。ドゥアオゴデイ家カイドゥ影響下に置かれており、コデン家同族であるオゴデイ家一門戦ってクビライ忠誠尽くしたが、クビライ旧領京兆与えられ安西マンガラクビライ三男)が入り、また甘粛地方西部ではアジキチュベイら、カイドゥ・ドゥアと対立してクビライ仕えチャガタイ裔の王族たちが勢力伸ばしていったため、コデン家甘粛支配次第形骸化していった。 その後コデン家は、当主イェス・エブゲン南宋旧領保持する所領にちなん1324年荊王封号与えられるなど、皇帝の一族として最高の待遇受けている。しかしコデン家嫡流当主であるコデン・アカの座はトゴン・テムル治下1343年までに不在となり、甘粛地方東部遊牧するコデン家領民統治権カアン直属機関である永昌等処宣慰使司都元帥府置き換えられている。その後コデン家動向不明である。

※この「コデン家の盛衰」の解説は、「コデン」の解説の一部です。
「コデン家の盛衰」を含む「コデン」の記事については、「コデン」の概要を参照ください。

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