コデン家の盛衰
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コデンの死後、彼の子孫たちは自己の領民がトルイの遺領から分与された縁もあってトルイ家との間に密接な関係を持ち、第4代カアンにオゴデイの子孫ではなくトルイの長男モンケを立てた政変において、オゴデイ一門中唯一モンケを支持する側に回った。このためコデン家はモンケの即位によってオゴデイ家およびその同盟者であるチャガタイ家が弾圧されたときも全く影響を被らず、甘粛地方に勢力を保った。 しかしモンケは漠南漢地総督としてゴビ砂漠以南の支配を委ねた弟のクビライに京兆(現在の西安)を中心とする陝西地方を与え、コデン家は河西の所領を引き続き安堵されたが、以後はこのクビライの影響下に置かれることになる。モンケの即位に協力したコデンの子モンゲドゥは、1253年に行われたクビライの雲南・大理遠征に参加している。1259年のモンケの死に始まるハーン位継承争いでは、モンゲドゥの兄弟ジビク・テムルがクビライの側につき、モンケ兄弟の末弟アリクブケを支持する勢力と甘粛地方を舞台に激しい戦いを繰り広げている。 クビライがカアンに即位して大元を興すと、ジビク・テムルおよび彼の甥イリンチンは、クビライと敵対するチャガタイ家のドゥアらと干戈を交えた。ドゥアはオゴデイ家のカイドゥの影響下に置かれており、コデン家は同族であるオゴデイ家の一門と戦ってクビライに忠誠を尽くしたが、クビライの旧領、京兆を与えられた安西王マンガラ(クビライの三男)が入り、また甘粛地方の西部ではアジキ、チュベイら、カイドゥ・ドゥアと対立してクビライに仕えるチャガタイ裔の王族たちが勢力を伸ばしていったため、コデン家の甘粛支配は次第に形骸化していった。 その後もコデン家は、当主イェス・エブゲンが南宋旧領に保持する所領にちなんで1324年に荊王の封号を与えられるなど、皇帝の一族として最高の待遇を受けている。しかしコデン家嫡流当主であるコデン・アカの座はトゴン・テムル治下の1343年までに不在となり、甘粛地方東部に遊牧するコデン家領民の統治権はカアン直属の機関である永昌等処宣慰使司都元帥府に置き換えられている。その後のコデン家の動向は不明である。
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