カイドゥ・ウルス建国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 06:45 UTC 版)
詳細は「オゴデイ・ウルス」を参照 1270年、チャガタイ家のバラクはイランに侵攻するが、イルハン朝の君主であるクビライの甥アバカにカラ・スゥ平原の戦いで敗れて勢力を失い、これをきっかけにカイドゥとの抗争も再燃した。バラクはカイドゥと講和した直後に急死するが、カイドゥにより毒殺されたとも言われる。カイドゥは、バラクの後継者に自らの推すニグベイを立てたが、ニグベイは間もなくカイドゥに反抗して戦死した。これによりチャガタイ家の権力が空白となり、後嗣を巡って紛糾するが、カイドゥはバラクの遺児ドゥアと和解してこれを擁立し、チャガタイ・ウルスを自らのオゴデイ・ウルスの支配下に置くことに成功した。 一方、1271年に国号を大元としていたクビライは、同年自身の四男ノムガン率いる軍を中央アジアに派遣し、チャガタイ家の本拠地アルマリクを占領した。しかし、1276年、この軍に参加していたモンケの遺児であるシリギが反乱を起こしてカイドゥと結び、ノムガンを捕えてカイドゥに引き渡した。シリギの乱はクビライによってすぐに鎮圧されたが、ノムガンの率いた元の中央アジア駐留軍は解体し、アリクブケの遺児のメリク・テムルらモンゴリア東部にいた王族・貴族がカイドゥのもとに投じた。 これにより、カイドゥの支配地域はジュンガリアのオゴデイ・ウルスを中心に、東はアルタイ山脈東麓のアリクブケ家のウルス、北はトゥヴァ地方のオイラト部族、西はイリ川流域のチャガタイ・ウルスからトランスオクシアナに至り、アム川でイルハン朝と境を接する広大な領土に広がった。カイドゥが実効支配したイリ方面やマー・ワラー・アンナフルなどの領域を、ペルシア語史料では「カイドゥの王国」( مملكت قايدوى mamlakat-i Qāydū'ī)と呼んでおり、これに従って、このカイドゥの国家を歴史家は「カイドゥ王国」、「カイドゥ・カン国」、「カイドゥ・ウルス」などと呼んでいる。
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