おろ・す【下ろす/降ろす】
読み方:おろす
[動サ五(四)]
1 上から下に移動させる。
㋐高い所から低い方へ移す。「屋根の雪を―・す」「腰を―・す」⇔上げる。
㋑操作によって物がおりた状態にする。下に垂らす。「ブラインドを―・す」⇔上げる。
3
㋐乗り物などから外へ出す。「駅前で客を―・す」「積み荷を―・す」
㋑(「堕ろす」とも書く)体外へ出す。堕胎する。「子を―・す」
4 神仏・貴人・客などに供した物を下げる。また、お下がりをもらう。「膳を―・す」「供物(くもつ)を―・す」
5 生えているものを切ったり、そったりして落とす。「枝を―・す」「髪を―・す」
6 役職・地位を下げたり、辞めさせたりする。「主役を―・される」
8
㋐料理のために魚・獣の肉を切り分ける。「アジを三枚に―・す」
㋑(「卸す」とも書く)下ろし金ですり砕く。「わさびを―・す」
10 扉をしめる。かぎをかける。とざす。「鎧戸(よろいど)を―・す」
「この類の小さな神を招き―・す方式となっていたものであろう」〈柳田・山の人生〉
「三室山(みむろやま)―・す嵐の寂しきに妻よぶ鹿の声たぐふなり」〈千載・秋下〉
[可能] おろせる
[下接句] 錨(いかり)を下ろす・重荷を下ろす・飾りを下ろす・頭(かしら)を下ろす・肩揚げを下ろす・髪を下ろす・看板を下ろす・錠を下ろす・根を下ろす・暖簾(のれん)を下ろす・箸(はし)を下ろす・筆を下ろす
おろ・す【卸す】
おろ・す【織ろす】
オロス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/05/13 08:49 UTC 版)
| オロス | |
|---|---|
| ジョチ・ウルス第20代当主 第19代ハン |
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| 在位 | 1368年 - 1377年 |
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| 死去 | 1377年 |
| 子女 | トクタキヤ、クトゥルク・ブカ、トゥグルク・プーラード、クユルチュク、トクタ・プーラード、サイイド・アフマド、サイイド・アリー |
| 家名 | トカ・テムル家 |
| 王朝 | ボルジギン氏(ジョチ家) |
| 父親 | バーディク |
オロス(Urus, ペルシア語: اوروس خان Ūrūs Khān 〜 اُرس خان Urus Khān[注釈 1]、生没年 ? - 1377年)は、バトゥ家断絶後のジョチ・ウルスのハン(在位 ? - 1377年)で、ジョチの十三男トカ・テムルの子孫である。15世紀の『ムイーン史選(Muntakhab al-Tawārīkh-i Muʿīnī)』の著者ムイーヌッディーン・ナタンズィーなど後代の歴史家によって、白帳(āq ūrda)ハンの第6代とされる。また、ティムールの伝記であるシャラフッディーン・アリー・ヤズディーの『勝利の書(Ẓafar Nāma)』では、オロスはジョチ・ウルスの当主としてはジョチから数えて第20代。16世紀初頭だがホーンダミールの歴史書『伝記の伴侶(Ḥabīb al-Siyar)』でも同じく第20代に数えられている[1]。
生涯
出自
『集史』ジョチ・ハン紀によれば、ジョチの十三男トカ・テムルにはバイ・テムル、バヤン、ウルン・テムル、キン・テムルの4人の男児がおり、この三男ウルン・テムル( اورنك تيمور Ūrunk Tīmūr)にはさら4人の男児、アジキ( اجيقی ajīqī/またはアジク اجق ajiq)、アリクリ(アズィクリ)、サリジャ、キラキズがいた。同書で長男アジキにはバフティヤール( بختيار bakhtiyār)という男児のみが言及されているが、ティムール朝時代に編纂された系図資料『高貴系譜』(Mu`izz al-Ansāb)によると、アジク(アジキ)にはバフティヤールの他にバーキーク( باقيق bāqīq?/またはマーキーク? ماقيق māqīq?)という兄弟が記されており、このバーキークの息子テムル・ホージャ( تيمور خواجه tīmūr khwāja)の息子バーディク( بادق bādiq/ يادق yādiq)の息子がオロスである。つまり、オロスは14世紀後半に多数いたトカ・テムル家の王族たちのうち、ウルン・テムル裔のアジキ家に属していたことになる。
即位
バトゥ家の実質最後のハンであった第13代君主ベルディ・ベクが死去した14世紀半ば以降、ジョチ・ウルスの二つの根幹であったバトゥ家、オルダ家が相次いで断絶し、ジョチ・ウルスは宗主位を巡って激しい後継者紛争が続いた。オロス・ハンはオルダ家が統率していたジョチ・ウルス左翼を構成するジョチ裔トカ・テムル家の王族のひとりであり、オルダ家断絶後のジョチ・ウルス左翼の地域で徐々に頭角を現してウルスの再編を行っていた。
1368年、スグナクでハン位につくと、バトゥ家とオルダ家が断絶して以来混乱の続くジョチ・ウルスを統合し、ウルスの左右両翼の再編を目指し、1372年 サライを占領する。しかしヴォルガ河流域を支配していたママイの勢力とは争わず、シルダリヤ方面に帰還する。1376年、ティムールの支援を受けたトクタミシュの数次にわたる侵攻を受ける。以前、オロスは同じトカテムル家ウルン・テムル裔のサリチャの曾孫でマンギシュラク(カスピ海東岸)の長官トイ・ホージャと対立し、彼を殺害していた。ティムールと結んだトクタミシュはこのトイ・ホージャの息子であり、オロスはトクタミシュを年少の所以をもって助命したが、トクタミシュは脱走と帰順を繰り返した後にティムールの元に亡命していた。1度目は子のクトゥルク・ブカに迎え撃たせ、トクタミシュの撃退には成功したものの、クトゥルク・ブカが戦死を遂げる。2度目の侵攻では長男のトクタキヤが敗北するも、トクタミシュを負傷させ撤退に追い込んだ[2]。3度目はティムールが自ら兵を率いて攻めて来たが、オロスは部隊をオトラルに派遣し、オロス自身はスグナク(サウランとの説も)を固めて持久戦に持ち込んだ。冬の到来によって両者は休戦し、ティムールはケシュに帰還する。
翌1377年春、ティムールの再度の侵攻を迎え撃ち、ウストユルト台地で戦ったが、対陣中に没した。死因については自然死、あるいは負傷がもとで戦死したとする説がある[2]。
祖父のエルゼンにならってスグナクに多数の建築物を寄進しているほか[2]、ヒジュラ暦776年(1374年-1375年)、ヒジュラ暦779年(1377年-1378年)にサライで鋳造した貨幣が現存する。
子女
シャイバーニー朝初期の歴史書『勝利の書なる選ばれたる諸史(Tawārīkh-i Guzīda-yi Nuṣrat Nāma)』(1504年頃成立)に記録されているオロスの子女は以下のように男子が7名、女子が5名としている[3][2]。
- 男子
- トクタキヤ
- クトゥルク・ブカ
- トゥグルク・プーラード
- クユルチュク
- トクタ・プーラード
- サイイド・アフマド
- サイイド・アリー
- 女子
- メングリ・ベク
- シカル・ベク
- スディ・ベク
- イーラーン・ベク
- メングリ・トゥルカン
トカ・テムル王家
- ジョチ(Jöči >朮赤/zhúchì,جوچى خان/jūchī khān)
- トカ・テムル(Toqa temür >توقا تیمور/tūqā tīmūr)
- バイムル(Bayimur >بایمور/bāyimūr)
- トガンチャル(Toγančar >توغانجار/tūghānjār)
- サシ(Sasi >ساسی/sāsī)
- Ⅰ?ノカイ(Noγai >نوقاى/nūqāy)=サシ・ブカと同一人物か
- Ⅱ?エレゼン(Erezen >یرزن/īrazan)
- Ⅰ?ノカイ(Noγai >نوقاى/nūqāy)=サシ・ブカと同一人物か
- グラク(Buz γulaq >توغانجار/būz ghulāq)
- Ⅲムバーラク・ホージャ(Mubarak khwaja >مبارک خواجہ/mubārak khwāja)
- Ⅳ?チンバイ(Čimbay >جیمبای/jīmbāy)
- サシ(Sasi >ساسی/sāsī)
- トガンチャル(Toγančar >توغانجار/tūghānjār)
- ウルン・テムル(Urung temür >اورنك تيمور/ūrunk tīmūr)
- アジキ(Ajiqi >اجيقی/ajīqī)
- バーキーク(Baqiq >باقيق/bāqīq)
- テムル・ホージャ(Temür khwaja >تيمور خواجه/tīmūr khwāja)
- バディク(Badiq >بادق/bādiq)
- Ⅴオロス・ハン(Oros qan >اوروس خان/ūrūs khān)
- Ⅵトクタキヤ(Toqtaqiya >توقتاقيا/tūqtāqiyā)
- Ⅴオロス・ハン(Oros qan >اوروس خان/ūrūs khān)
- バディク(Badiq >بادق/bādiq)
- テムル・ホージャ(Temür khwaja >تيمور خواجه/tīmūr khwāja)
- バーキーク(Baqiq >باقيق/bāqīq)
- サルチャ(Sarča >اجيقی/sārīja)
- コンチェク(Gönčeg >کونجه/kūnjīk)
- トゥグルク・ホージャ(Tuγluq khwaja >تيمور خواجه/tughluq khwāja)
- トイ・ホージャ(Toy khwaja >بادق/tūy khwāja)
- Ⅷトクタミシュ・ハン(Toqtamiš qan >توقتاميش خان/tūqtāmīsh khān)
- ⅩⅡジャラールッディーン(Jalal al-Din qan >جلال الدین خان/jalāl al-dīn khān)
- Ⅷトクタミシュ・ハン(Toqtamiš qan >توقتاميش خان/tūqtāmīsh khān)
- トイ・ホージャ(Toy khwaja >بادق/tūy khwāja)
- トゥグルク・ホージャ(Tuγluq khwaja >تيمور خواجه/tughluq khwāja)
- コンチェク(Gönčeg >کونجه/kūnjīk)
- アジキ(Ajiqi >اجيقی/ajīqī)
- キン・テムル(Kin temür >کين تيمور/kīn tīmūr)
- アバイ(Abai >اباي/abāy)
- ノムカン(Nomuqan >نومقان/nūmuqān)
- クトルク・テムル(Qutluq temür >قتلق تيمور/qutluq tīmūr)
- Ⅶテムル・ベク・ハン(Temür beg qan >تيمور بيک خان/tīmūr bīk khān)
- Ⅸテムル・クトルク・ハン(Temür qutluq qan >تيمور قتلق خان/tīmūr qutluq khān)
- クトル・ベク(Qutlu beg >قوتلو بيک/qūtlū bīk)
- Ⅹシャディ・ベク・ハン(Šadi beg qan >شادی بيک خان/shādī bīk khān)
- Ⅶテムル・ベク・ハン(Temür beg qan >تيمور بيک خان/tīmūr bīk khān)
- クトルク・テムル(Qutluq temür >قتلق تيمور/qutluq tīmūr)
- ノムカン(Nomuqan >نومقان/nūmuqān)
- アバイ(Abai >اباي/abāy)
- バイムル(Bayimur >بایمور/bāyimūr)
- トカ・テムル(Toqa temür >توقا تیمور/tūqā tīmūr)
系図
ジョチから大オルダまでの系図
脚注
注釈
出典
参考文献
- 樺山紘一、川北稔、岸本美緒、 斎藤修、杉山正明、鶴間和幸、福井憲彦、古田元夫、本村凌二、山内昌之『中央ユーラシアの統合』岩波書店〈岩波講座世界歴史11〉、1997年11月10日。ISBN 9784000108317。* S.G.クシャルトゥルヌ、T.I.スミルノフ『アイハヌム 2003: 加藤九祚一人雑誌』加藤九祚訳、東海大学出版会、2003年11月1日。 ISBN 978-4486031673。
- 赤坂恒明『ジュチ裔諸政権史の研究』風間書房、2005年2月28日。 ISBN 978-4759914979。
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