14世紀以降、プファルツ選帝侯領時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/05 08:49 UTC 版)
「キルヒャルト」の記事における「14世紀以降、プファルツ選帝侯領時代」の解説
キルヒャルトの 土地台帳中に城についての記述がある。世襲封土としてのBurghof(城の農場)とBurggärten(城の庭園)の耕作地がそれである。ここでいう Burg(城)は、12世紀に存在し、この周辺の村を治めた領主の城であるシュタインスベルク城を指すと考えて、ほぼまちがいない。シュタインスベルク家が断絶した後、この地はエッティンゲン家に移り、さらに1308年頃からはライン宮中伯家に移った。これによりキルヒャルトは、14世紀にはプファルツ家の所領となり、1803年にプファルツ選帝侯が廃止されるまで、その所領にとどまった。最初は、アムト・シュタインスベルク管轄下、1521年からはオーバーアムト・モスバッハのヒルスバッハ・ワイン管理局の管轄下におかれた。(アムト、オーバーアムトは当時の地方行政区画)果実およびワインの十分の一税徴収権など教会関係の権利はドイツ騎士団に属したが、1556年にプファルツ選帝侯領で宗教改革がなされた後は、その影響力は減退した。 プファルツ選帝侯領時代のこの村は、ヒルスバッハ・ワイン管理局から派遣された村長によって運営され、一定の自治権を行使していた。この他に、村の裁判所には、12人、 三十年戦争後には8 - 9人の判事がいた。キルヒャルトで最初の役場は1570年頃に建設された。 この村の領域は、中世には、柵で囲まれており、自由民や半自由民の自分の土地、相続可能な土地として農民に耕作を委託している領主の土地に分類された。こうした相続封土は分割や縮小が許されていなかったが、交換による頻繁な管轄地の変更や、クンケルレーエン(男系だけでなく女系の後継者にも相続可能なレーエン)として授けられた封土によって、数多くの小地主が発生した。これに対して、農民自身の土地は分割相続により、土地の分割が進行し、所有関係は複雑なものになっていった。その上、元々はゆったりと造られていた柵内の入植地は人口増加により過密になって行き、農場だった辺りは、現在の本通り沿いから教会付近で東に膨らんだ窮屈な街道町になっていった。1496年に最初の記録が遺るこの教会は村を3つに分割した。教会の北からグロムバッハ門までのオーバードルフ(上の村)、教会の東側一帯のミッテルドルフ(中の村)、教会の南からベルヴァンゲン門までのウンタードルフ(下の村)である。元々、村には藁葺き屋根の木造建築が主であった。1531年にプファルツ選帝侯領に出された法令により、家屋、家畜小屋や倉庫は、これ以後、石の基礎の上に建てることが定められ、1700年の法令により藁葺き屋根は瓦屋根に葺き替えられた。 三十年戦争以後は、それによる荒廃に加え、ペストにも周辺全域が苦しめられ、キルヒャルトの人口は、約80人にまで減少した。その後、1686年に約280人、1746年に420人、1774年には509人と回復していった。 1701年には、教会と司祭館の壊滅的な状態がきっかけとなり、十分の一税を受け取っているドイツ騎士団には教会を復興する義務があるのではないかという議論がおこった。結局、騎士団は教会の塔の石組み部分と司祭館の再建について義務を負うこととなった。 18世紀後半に、プファルツ選帝侯カール・テオドールによってキルヒャルトを経由する幹線道路が建設された。この道路はシュタインスフルトからフュルフェルトへ至る新しい国道であった。Hohe Straßeと呼ばれる旧国道は、これよりも北側のグロムバッハ付近を通っていた。新国道のこの区間は、現在の連邦道B39号線になっている。1800年頃に門が廃止され、門による村域の制限が徐々に廃止され、キルヒャルトの交通は強化されていった。
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