14世紀~15世紀: 都市を巡る抗争
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「モンツァ」の記事における「14世紀~15世紀: 都市を巡る抗争」の解説
キリスト教世界で初めての聖年となった1300年、マッテオ・ヴィスコンティによって、モンツァ大聖堂の再建工事が開始された。1311年、皇帝ハインリヒ7世はデッラ・トッレ家に忌避されたため鉄王冠の戴冠をすることができなかった。このため、ローマ人の王となるために別の冠を用意しなければならなかった。1312年、モンツァはギベリンとしての立場を明らかにした。 モンツァの有力家門であったエンリコ・アリプランディ (it:Enrico Aliprandi) はデッラ・トッレ家の派閥に加わり、兵士を徴募してその指揮下に置き、1322年にモンツァの支配者として住民に推戴される。同年、ルキーノ・ヴィスコンティとフランチェスコ・ガルバニャーテ(Francesco Garbagnate)はモンツァがミラノに抵抗できないようにするため、モンツァの市壁を取り壊した。 1325年、ガレアッツォ1世・ヴィスコンティは長い包囲戦を経てモンツァを占領すると、その優れた手腕で都市防衛のための施設の建設に着手した。ランブロ川を人工的に分岐させてランブレット川を築き、また新たにモンツァ城 (it:Castello di Monza) を築いた。モンツァ城で最初に建てられた建物には42mの高さを持つ塔があり、監獄としても用いられたが、「炉の監獄」(la prigione dei Forni)とも呼ばれて恐れられた。モンツァ城はのちに拡張され、ランブロ川に沿って2つの塔が建設されているが、拡張工事のために教会をも取り壊している。しかし1327年、ガレアッツォ1世は皇帝ルートヴィヒ4世の命によって自ら建てた「炉の監獄」に幽閉されている。ガレアッツォ1世は翌年に釈放されたが、その年のうちに没した。 1329年4月、ピナッラ・アリプランディ (it:Pinalla Aliprandi) は、ルートヴィヒ4世の軍勢によって占拠されていたモンツァを、少数のヴィスコンティ家の騎士とともに回復した。アッツォーネ・ヴィスコンティ (it:Azzone Visconti) は、モンツァが再び市壁を築くことを認める。市壁の再建は1333年に始まり、1381年まで続いた。マルチノ・アリプランディ (it:Martino Aliprandi) は、1334年から1336年にかけて市長(ポデスタ)を務めている。 1354年、教皇インノケンティウス6世は、モンツァ大聖堂にある鉄王冠がイタリアの王冠として疑いのない権利を有することを宣言した。1380年、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティは妻カテリーナ (it:Caterina Visconti) に城を譲渡する。1404年、カテリーナ・ヴィスコンティが没すると、息子のジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティによって受け継がれた。なお、この間の1402年にペストの流行があった。 1407年に、エストッレ・ヴィスコンティ (it:Estorre Visconti) がモンツァの領主となり、自身の硬貨を鋳造した。1412年にジョヴァンニ・マリーアが没するとエストッレはミラノ公に迎えられたが、その継承はフィリッポ・マリア・ヴィスコンティ (it:Filippo Maria Visconti) によって妨げられた。エストッレはモンツァ城に包囲され、投石による負傷が原因で死亡した。
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