ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/15 08:33 UTC 版)
ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ Giovanni Maria Visconti |
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第2代ミラノ公 | |
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在位 | 1402年 - 1412年 |
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出生 | 1388年9月7日 |
死去 | 1412年5月16日(23歳没) |
配偶者 | アントーニア・マラテスタ |
家名 | ヴィスコンティ家 |
父親 | ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ |
母親 | カテリーナ・ヴィスコンティ |
ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ(Giovanni Maria Visconti, 1388年9月7日 - 1412年5月16日)は、第2代のミラノ公(在位:1402年 - 1412年)。14歳でミラノ公国の王位を継いだが、24歳で暗殺された。
生涯
ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティとカテリーナ・ヴィスコンティ(ベルナボ・ヴィスコンティの娘)との息子で、彼の後を継いだフィリッポ・マリーアの兄でもある。
父であるジャン・ガレアッツォが急死したとき、ジョヴァンニ・マリーアはまだ14歳だったため、母親であるカテリーナが摂政となって公国を治めた。やがて長じたジョヴァンニは、佞臣の讒言に耳を貸し、母親を幽閉して自らミラノの支配者となる。
ミラノ公となったジョヴァンニは独善的に振る舞い、時には配下の傭兵隊長とも対立した。そのため、領地では反乱が多発し、暗殺を恐れたジョヴァンニは城に引きこもる。しかし、教会に参拝に出かけた際に刺客に襲われ、命を落とした。
1408年、チェゼーナ領主アンドレア・マラテスタの娘アントーニアと結婚したが、世継ぎは残していない。
没後
4歳下の弟のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティが跡を継ぎ、3代ミラノ公となった。フィリッポは1943年よりヴェネツィア共和国との10年にわたる戦争を繰り返した。フィリッポの死後、ミラノ領は共和制政府が一時治めたが、フィリッポの元傭兵で娘婿でもあったフランチェスコ・スフォルツァが領地を取り返してミラノ公となった。
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ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ(1388年 - 1412年)
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「ヴィスコンティ家」の記事における「ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ(1388年 - 1412年)」の解説
ジャン・ガレアッツォの息子。1402年、母の摂政の下でミラノ公となった(在位:1402年 - 1412年)。
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固有名詞の分類
幼君 |
ヨーハン・ネポムク・カール ロムルス・アウグストゥルス ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ ボードゥアン2世・ド・クルトネー ユーグ・ド・フランス |
ミラノ公 |
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ ルドヴィーコ・スフォルツァ マッシミリアーノ・スフォルツァ |
ヴィスコンティ家 |
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