プファルツ選帝侯領時代
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「モースバッハ」の記事における「プファルツ選帝侯領時代」の解説
1410年に、ローマ王(ドイツ王)ループレヒトの末子オットー1世は、モースバッハを自身の宮廷所在地とした。プファルツ=モースバッハ領には、ネッカー川沿いの所領の他、クライヒガウやベルクシュトラーセの所領が含まれた。1437年、オットーがモースバッハ年税の一部(毎年10グルデン)を担保(モーゲージ)として、ユリアナ教会主任司祭ヴィルヘルム・フォン・ブルンから200ライン・グルデンを借り入れた。 オットーの兄ヨハンが亡くなった後、ノイマルクト・イン・デア・オーバープファルツ周辺のより広大な所領(プファルツ=ノイマルクト)を獲得した。オットー2世は主にこの街で、プファルツ=モースバッハおよびプファルツ=ノイマルクトの両所領を統治した(プファルツ=モースバッハ=ノイマルクト)。オットー2世の時代に都市からの諸税収入を担保とする借り入れが増えた。1464年、オットー2世がハンス・ゲミンゲン(Hans von Gemmingen, genannt Giener)から4000グルデンを借り受けたが、そのとき村落ワインガルテンの1/3が担保として、またモースバッハとジンスハイムが保証として供された。同じとき、オットー2世はモースバッハ主任司祭ヨハネス・ヘムスバッハに1000グルデンを借りたが、モースバッハ年税から50グルデンがモーゲージとして、さらにモースバッハ自体が保証として供された。1472年、オットー2世が再びハンス・ゲミンゲンから3000グルデンを借りて、ジンスハイムの都市ヒルスバッハの年税から50グルデンをモーゲージとして、さらにモスバッハを保証として供した。1474年、オットー2世がディター・ゲミンゲンから6000グルデンを借り、モースバッハ・エーバーバッハ年税300グルデンをモーゲージとして、さらに両都市を保証として供した。1487年、オットー2世はプライカー・ゲミンゲンから2000グルデンを借りて、先の両市年税200グルデンをモーゲージとして、さらに両市を保証として供した。オットー2世は同年、他に少なくとも三件の借り入れがあった。オットー2世は子供を遺さなかったため、プファルツ=モースバッハ家は1499年に断絶し、その遺領は選帝侯本家に戻された。当時の選帝侯は、フィリップ誠実侯であった。1504年、バイエルン公のゲオルクが死去したことをきっかけにランツフート継承戦争が起こり、モースバッハからも市民などが従軍した。宗教改革で混乱した末、1525年に小十分の一税(大十分の一税と別に、穀物以外の作物に賦課される)が有償で償却された(2月22日完了)。 モースバッハ侯領の廃止後、この街はプファルツ選帝侯領オーバーアムト・モースバッハ(オーバーアムトは当時の地方行政区分)の本部所在地となった。18世紀までに、このオーバーアムトはライン右岸で最も重要なオーバーアムトに発展してゆく。モースバッハは発展・繁栄した。多くの裕福な市民階級が現れたことは、現在もモースバッハ旧市街に特徴的な外観を与えている木組み建築の一部がこの時代に建設されていることにも示されている。 ところが三十年戦争(1618年 – 1648年)が起こると一気に衰退した。この戦争が勃発した当時のプファルツ選帝侯は、カルヴァン派のフリードリヒ5世であった。フリードリヒ5世は、外交上の不運からボヘミア王位に就き、プロテスタント連合(ウニオン)の総裁に選ばれた。これにより彼には三十年戦争の宗教的側面がのしかかることとなった。敵のトップはカトリック同盟(リーガ)の首領であるバイエルン公マクシミリアン1世、フリードリヒと同じヴィッテルスバッハ家の人物であった。プファルツ選帝侯はこれにより宗教対立の中心に立たされた。モースバッハは、たとえば焼き討ちなどといった完全な破滅からは免れ、建物は保存されたものの、何度も軍隊がこの街を往き来し、市の全域で裕福な家が略奪に遭った。略奪を逃れた者にも飢餓とペストが襲いかかった。プファルツ選帝侯にとって三十年戦争は、選帝侯位を喪失し、バイエルンに譲ることを意味していた。しかし、ヴェストファーレン条約では、プファルツ侯に8番目の新しい選帝侯位が与えられた。 マテウス・メーリアンは、自著 Topographia Germaniae(『ドイツ地誌』)のために、1645年にモースバッハの銅版画を創作している。 三十年戦争終結後、モースバッハは長い回復期に入った。プファルツ継承戦争(1688年 – 1697年)では、モースバッハは、マンハイム、ハイデルベルク、シュパイアーとは異なり直接戦場となることはなく、破壊を免れた。しかし、戦争の負担は地域全体に及んだため、この戦争が三十年戦争からの回復に悪影響を及ぼしたことは間違いない。この時、破壊されたマンハイムからいくつかのユダヤ人家族がモースバッハへ移住し、その後新たなユダヤ人コミュニティーを形成していった。 1690年にプファルツ選帝侯位に就いたヨハン・ヴィルヘルムは、ヴィッテルスバッハ家のカトリック系の家系であるプファルツ=ノイブルク家出身でデュッセルドルフに宮廷を構えた。ヨハン・ヴィルヘルムは、芸術・文化の保護者として当時から人気の高い領主で、現在もデュッセルドルフ旧市街の中心に彼の記念碑が建っている。プロテスタント化されたハイデルベルクを中心としたプファルツ選帝侯領中心部と、このカトリック領主との間の宗教的対立は、プファルツ継承戦争中からすでにその兆しがあり、その後顕在化した。三十年戦争後、時代は変化しており、宗教信条の違いはそれ以前ほど重要でなくなってはいたが、完全に意味をなくしたわけでは、もちろんなかった。プファルツ継承戦争終結後、カルヴァン派のプファルツ選帝侯領の町(モースバッハもこれに含まれる)は、ヨハン・ヴィルヘルムの統治下に帰結した。しかしヨハン・ヴィルヘルムは、ネッカー付近の臣下からの支持を取りつけていなかった。こうした状況の中で、ヨハン・ヴィルヘルムは大変に寛容で、信仰の異なる臣下を否定はしなかった。 1723年に市内の建物が火災で被害を受けた。150軒の家屋が犠牲となる、甚大な損失であった。 選帝侯カール3世フィリップの賢明な政策により、ネッカー川周辺地域は復興した。その後継者カール・テオドールは、開明君主としてマンハイムに比類のない繁栄をもたらした。カール・テオドールは、芸術、文化、知識の保護者として、アカデミー、オーケストラ、劇場を創設した。その宮廷には、モーツァルト、シラー、イフラントといった芸術家が訪れた。カール・テオドールは、モースバッハでは陶芸を奨励し、増加した商人や職人によってモースバッハは再び繁栄を迎えたのだった。
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