プファルツ継承戦争、バイエルン選帝侯位の継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 07:08 UTC 版)
「プファルツ家」の記事における「プファルツ継承戦争、バイエルン選帝侯位の継承」の解説
1685年にカール1世ルートヴィヒの息子であるカール2世が嗣子を残すことなく没したことで、ジンメルン家は断絶、同族でツヴァイブリュッケン家の傍系に当たるプファルツ=ノイブルク公フィリツプが選帝侯位を継承するが、ノイブルク家の祖フィリップ=ルートヴィヒがカトリックに再改宗していたことから、プファルツはカトリック信仰に戻ることとなった。ただし、カール2世の妹であるエリザベート・シャルロットと結婚していたオルレアン公フィリップ1世はフィリップ・ルートヴィヒの継承に異議を唱えて1687年から1697年にかけてプファルツ継承戦争(大同盟戦争)が起きることとなった。 選帝侯位を継承したヨハン・ヴィルヘルム、カール3世フィリップのいずれもが男子を残さなかったことでノイブルク家は1742年に断絶し、サリカ法に則って選帝侯位は同族であるプファルツ=ズルツバッハ公カール4世フィリップ・テオドールが継承することとなった。もっとも、カール3世フィリップは最初の妃であるルドヴィカとの間に娘エリーザベト・アウグステを儲けており、彼女はカール・テオドールの伯父にあたるヨーゼフ・カールに嫁ぎ、2人の娘であるエリーザベトがカール・テオドールに嫁いでいるため、女系を含めれば血縁上の繋がりも近い。 カール・テオドールは1777年にバイエルン家が断絶したことを受けてバイエルン選帝侯位も継承し、結果ヴィッテルスバッハ家は統合された。しかし、カール・テオドールもまた男子を残すことなく1799年に死去したことでズルツバッハ家は断絶し、同族であるビルケンフェルト家のプファルツ=ツヴァイブリュッケン公マクシミリアン4世ヨーゼフ(既にビルケンフェルト家はクレーブルク家断絶を受けてツヴァイブリュッケン公位を継承していた)が選帝侯位を継承することとなったが、その母マリア・フランツィカはエリザベート・アウグステの妹であった。 フランス革命戦争の煽りを受けて、マクシミリアン4世ヨーゼフはプファルツを放棄することを余儀なくされるものの、1806年に初代バイエルン国王マクシミリアン1世となり、それは1918年にルートヴィヒ3世が退位するまで続いた。なお、マクシミリアン1世が選帝侯位を継承した際に同族のゲルンハウゼン家の男子にはバイエルン公 (Herzog in Bayern) の称号が授けられている。
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