プファルツ選帝侯領との統合とバイエルン王国の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 05:09 UTC 版)
「バイエルン選帝侯領」の記事における「プファルツ選帝侯領との統合とバイエルン王国の成立」の解説
1777年にマクシミリアン3世ヨーゼフが男子を残すことなく没したことで、バイエルン系ヴィッテルスバッハ家は断絶した。サリカ法に則って、遠縁であるプファルツ=ズルツバッハ家出身のプファルツ選帝侯カール・テオドールがバイエルン選帝侯を継承し、ヴィッテルスバッハ家は統合された。しかし、カール・テオドールはバイエルン統治に乗り気ではなく、これに目を付けた神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世はバイエルンとオーストリア領ネーデルラントの交換を持ちかけた。カール・テオドール自身はこの交換に応じるつもりであったが、周辺諸国の妨害(バイエルン継承戦争)で実現せず、バイエルンの民衆との間に溝が深まっただけであった。 1789年のフランス革命及び1792年の革命戦争の勃発にバイエルンも否応もなく巻き込まれ、国内には10万のオーストリア軍が駐屯したが、バイエルン人の伝統的な反オーストリア感情を焚きつけることになった。民衆の不信が募る中、1799年2月12日にカール・テオドールは廷臣たちとトランプに興じている最中に倒れ、4日後に帰らぬ人になった。 カール・テオドールの死を受けて、プファルツ=ビルケンフェルト家のツヴァイブリュッケン公マクシミリアン4世ヨーゼフが選帝侯位を継承した。カール・テオドールの「悪政」に不満を抱いていた民衆はこれを歓迎し、マクシミリアン4世もこれに応えるべくモンジュラ伯を登用して啓蒙政治を行ったが、国外情勢にも対応しなければならなかった。革命戦争は激化し、フランス革命軍の勢いは凄まじく、既にマクシミリアン4世の拠点であったツヴァイブリュッケン公領を制圧し、バイエルンにまで肉薄する勢いだったのである。そして1800年6月28日にミュンヘンは革命軍の手に落ち、マクシミリアン4世は亡命を余儀なくされた。バイエルンには共和政樹立の気配さえ出た。1801年2月9日のリュネヴィル条約で革命軍はバイエルンから撤退してマクシミリアン4世ヨーゼフは帰国することが出来た。 その後、マクシミリアン4世はフランスで急速に台頭したナポレオン・ボナパルトに接近し、同年8月28日に友好条約を結んだ。1803年に神聖ローマ帝国内での領域の再編成が行われ(帝国代表者会議主要決議)、バイエルンはライン左岸の領土とライン右岸のプファルツ選帝侯領を放棄する代わりに南ドイツ一円に領土を拡大した。1805年8月25日にマクシミリアン4世は前年にフランス皇帝となったナポレオンとボーゲンハウゼン条約を締結し、バイエルンは1813年の諸国民戦争までフランスの強力な同盟国として歩んでいくことになる。1806年1月1日にマクシミリアン4世は初代バイエルン国王マクシミリアン1世として戴冠し、バイエルン選帝侯領は新たに獲得した諸領とともにバイエルン王国へ統合された。
※この「プファルツ選帝侯領との統合とバイエルン王国の成立」の解説は、「バイエルン選帝侯領」の解説の一部です。
「プファルツ選帝侯領との統合とバイエルン王国の成立」を含む「バイエルン選帝侯領」の記事については、「バイエルン選帝侯領」の概要を参照ください。
- プファルツ選帝侯領との統合とバイエルン王国の成立のページへのリンク