プファルツ=ジンメルン家とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > プファルツ=ジンメルン家の意味・解説 

プファルツ=ジンメルン家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/28 04:50 UTC 版)

プファルツ=ジンメルン
Pfalz-Simmern
1459年 - 1685年
(国章)

プファルツ=ジンメルン(薄い橙色)
公用語 ドイツ語
首都 ジンメルン
元首等
1459年 - 1480年 フリードリヒ1世
1680年 - 1685年 カール2世
変遷
プファルツ=ジンメルン=ツヴァイブリュッケンの分割により成立 1459年
フリードリヒ3世がプファルツ選帝侯となる 1559年
プファルツ=ジンメルン家の断絶 1685年

プファルツ=ジンメルン家(Pfalz-Simmern)は、プファルツ系ヴィッテルスバッハ家の流れの一つ。三十年戦争及びその前後の時代、ドイツのみならずチェコイギリスオランダの歴史に重要な関わりを持った。

歴史

1648年のジンメルン城、メーリアンによる版画

ローマ王にも選ばれたプファルツ選帝侯ループレヒト3世1410年に死去すると、プファルツ系ヴィッテルスバッハ家は早世した長男を除く4人の息子それぞれの系統に分かれた。その一つがジンメルン(現ラインラント=プファルツ州ライン=フンスリュック郡の都市)に拠点を置いた、ループレヒトの四男シュテファンに始まるプファルツ=ジンメルン系であった(プファルツ選帝侯は次兄ルートヴィヒ3世が継ぎ、三兄ヨハンプファルツ=ノイマルクト公、弟オットー1世プファルツ=モスバッハ公となった)[1]

シュテファンの玄孫フリードリヒ3世以降はこの系統がプファルツ選帝侯を継承した。

フリードリヒ3世の曾孫フリードリヒ5世プロテスタント諸侯の盟主としてハプスブルク家と対立し、同家に代わってボヘミア王位に即いたが、これが発端となって三十年戦争が勃発した。フリードリヒ5世はボヘミア王位だけでなくプファルツの本領も奪われてオランダ共和国へ亡命を余儀なくされたが、さらに選帝侯位も剥奪され、代わってバイエルン系ヴィッテルスバッハ家のマクシミリアン1世が選帝侯となった。後にヴェストファーレン条約によって、息子カール1世ルートヴィヒは旧領の多くを回復し、選帝侯位を新たに認められた。

フリードリヒ5世の妃エリザベス・ステュアートイングランドジェームズ1世の娘であったため、カール1世ルートヴィヒの弟ループレヒト(ルパート)イングランドへ渡ると王家の一員として重きをなし、イングランド内戦では国王軍を指揮し、王政復古期にはハドソン湾会社の総督として北米植民地(現在のカナダ)の経営にも関わった。また、1701年王位継承法によってカール1世ルートヴィヒやループレヒトの末妹ゾフィーの血を引く者のみに王位継承権が認められ、ゾフィーの息子ジョージ1世に始まるハノーヴァー朝が成立した[2][3]

この家系の本流は1685年カール2世の死で断絶し、選帝侯位は支流のプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムが継承した。しかしフランス王ルイ14世は、カール2世の妹エリーザベト・シャルロッテが王弟オルレアン公フィリップの妃であることを理由に弟の権利を主張し、プファルツ継承戦争が勃発した[4]

なお、本流は断絶したものの、その後プファルツ選帝侯位を継承したのはいずれもシュテファンの系統である。のみならず、カール・テオドールバイエルン系ヴィッテルスバッハ家の断絶に際してバイエルン選帝侯位も併せて継承し、その後継者となったプファルツ=ビルケンフェルト家マクシミリアンバイエルン王国を興している。スウェーデンプファルツ王朝を興したプファルツ=クレーブルク家もシュテファンの末裔である。

プファルツ=ジンメルン公

ジンメルン宮中伯と訳される場合もある。

プファルツ選帝侯

脚注

  1. ^ Benjamin Müsegades (2016年4月13日). “Digitalisat Pfälzische Teilungen”. Historisches Lexikon Bayerns. 2023年5月28日閲覧。
  2. ^ The Act of Settlement”. The Royal Family (2016年3月23日). 2023年5月28日閲覧。
  3. ^ Rodrigues, Ana Maria S. A.; Silva, Manuela Santos; Spangler, Jonathan W. (19 August 2019). Dynastic Change: Legitimacy and Gender in Medieval and Early Modern Monarchy. ISBN 9781351035125. https://books.google.com/books?id=NgKqDwAAQBAJ&q=sophia+of+hanover+member+house+of+wittelsbach&pg=PT246 
  4. ^ 宮本、pp. 139 - 143、p. 153

参考文献

  • 宮本絢子『ヴェルサイユの異端公妃 リーゼロッテ・フォン・デァ・プファルツの生涯鳥影社、1999年

関連項目


プファルツ=ジンメルン家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 07:08 UTC 版)

プファルツ家」の記事における「プファルツ=ジンメルン家」の解説

「プファルツ=ジンメルン家」も参照 プファルツ=ジンメルン=ツヴァイブリュッケン家シュテファン長男フリードリヒ1世がシュポンハイム並びにジンメルンを継承したことに始まる。ヨハン2世の代にカルヴァン派改宗し、その息子フリードリヒ3世本家断絶受けて選帝侯位も相続している。以後一族カルヴァン派守護者となり、さらにはプロテスタント同盟盟主となることで帝国内のプロテスタント庇護者となりうる立場上りつけた。このためフリードリヒ5世ボヘミア等族(有力貴族)によって国王選出されるものの、これが切っ掛け三十年戦争勃発して一時選帝侯位を喪失する。その息子であるカール1世ルートヴィヒ1648年ヴェストファーレン条約新たに創設され選帝侯位を獲得する者の息子カール2世の代で断絶カール2世の妹であるエリザベート・シャルロットと結婚していたオルレアン公フィリップ1世継承主張して大同盟戦争勃発する

※この「プファルツ=ジンメルン家」の解説は、「プファルツ家」の解説の一部です。
「プファルツ=ジンメルン家」を含む「プファルツ家」の記事については、「プファルツ家」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「プファルツ=ジンメルン家」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「プファルツ=ジンメルン家」の関連用語

プファルツ=ジンメルン家のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



プファルツ=ジンメルン家のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのプファルツ=ジンメルン家 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのプファルツ家 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS