オットー1世_(プファルツ=モスバッハ公)とは? わかりやすく解説

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オットー1世 (プファルツ=モスバッハ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/28 09:54 UTC 版)

オットー1世
Otto I.
プファルツ=モスバッハ公
プファルツ=ノイマルクト公
在位 プファルツ=モスバッハ公1410年 - 1461年
プファルツ=ノイマルクト公:1448年 - 1461年

出生 (1390-08-24) 1390年8月24日
神聖ローマ帝国
プファルツ選帝侯領モスバッハ
死去 (1461-03-14) 1461年3月14日(70歳没)
神聖ローマ帝国
プファルツ選帝侯領、ライヒェンバッハ
埋葬 神聖ローマ帝国
プファルツ選帝侯領、ライヒェンバッハ、ベネディクト会修道院
配偶者 ヨハンナ・フォン・バイエルン=ランツフート
子女 一覧参照
家名 プファルツ=モスバッハ家
父親 プファルツ選帝侯ローマ王ループレヒト
母親 エリーザベト・フォン・ニュルンベルク
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オットー1世(Otto I., 1390年8月24日 - 1461年3月14日)は、プファルツ=モスバッハ公。プファルツ選帝侯ローマ王ループレヒトニュルンベルク城伯フリードリヒ5世の娘エリーザベトの五男。プファルツ=モスバッハ家の祖。プファルツ選帝侯ルートヴィヒ3世、プファルツ=ノイマルクト公ヨハン、プファルツ=ジンメルン=ツヴァイブリュッケン公シュテファンの弟。

生涯

1410年の父の死後、領土を分割、モスバッハを領有した。モスバッハの発展に尽くす一方、幼少の甥(長兄ルートヴィヒ3世の子)ルートヴィヒ4世の後見人を1442年まで務めた。1448年カルマル同盟(北欧三国)の君主だった甥(次兄ヨハンの子)クリストファ(クリストフ)が亡くなり、遺領のノイマルクトを相続、一部は三兄のシュテファンに分け与えた。1461年のオットー1世の死後、子のオットー2世はモスバッハとノイマルクトを合わせて相続、プファルツ=モスバッハ=ノイマルクト公となった。

子女

1430年下バイエルン=ランツフート公ハインリヒ16世の娘ヨハンナと結婚。9人の子を儲けた。

  • マルガレーテ(1432年 - 1451年) - ハーナウ伯ラインハルト3世と結婚。
  • アマーリエ(1433年 - 1488年) - リーネック伯フィリップと結婚。
  • オットー2世(1435年 - 1499年) - プファルツ=モスバッハ=ノイマルクト公
  • ループレヒト(1437年 - 1465年) - レーゲンスブルク司教
  • ドロテア(1439年 - 1482年)
  • アルブレヒト(1440年 - 1506年) - シュトラスブルク司教
  • アンナ(1441年 - ?)
  • ヨハン(1443年 - 1486年) - マインツ主席司祭
  • バルバラ(1444年 - 1486年) - 修道女
先代
新設
プファルツ=モスバッハ公
1410年 - 1461年
次代
オットー2世
先代
クリストフ
プファルツ=ノイマルクト公
1448年 - 1461年
次代
オットー2世



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