「位下(投下)」としての高麗王家
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「投下 (モンゴル帝国)」の記事における「「位下(投下)」としての高麗王家」の解説
モンゴル帝国支配下の高麗王国はクビライ家の公主を代々受け入れる「駙馬(キュレゲン)」として独自の王家の存続を許された、特殊な立ち位置の王国であったことで知られている。このような高麗王国と高麗王家のあり方は、大元ウルスからは「投下領」と「投下領主」として捉えられていたことが近年の研究により明らかになっている。高麗王家はクビライ家の公主を要るだけでなく、王府を開設し、自身のケシクテイ(親衛隊)を整備するなど、他のモンゴル諸王と同じ形式を整えていた。また、ケシクテイ(親衛隊)などモンゴル風の官職に就いた者たちは高麗国内で「アイマク(愛馬)の成衆」とも呼ばれており、高麗王家支配下の人民が投下の一部とみなされていたことを示唆する。 このような高麗王家の立ち位置について、『牧庵集』巻3所収の「高麗瀋王詩序」は以下のように表現している。 訳文:王は異姓であり皇族とは差達がある。しかし宗王が大国に封じられたとしても、名目だけの封邑をたてまつるに等しい。なぜならば、いまだかつて祖が子と宗廟を別にしたことはないからである。人民は天子が官更に統治させ、その政庁には監郡と府属を置くことができるが、みな要請して朝廷からこれを任命する。そうであれば刑罰の執行や軍事行動は、どうしてあえて律をこえようか。民は五家ごとに縫を課税することわずかに一斤とし、しかも指令を下してほしいままにその地より徴発することを許さず、みなこれを天子の府庫に運び、年末に頒給する。そのしくみもまた細密である。どういうわけか高麗王家はそうではない。宗廟の祭記があり、その祖先を祀っている。百官が配備され、その職を統べている。賞罰と命令はその国で独自におこなわれ、税収はすべて三韓の境内で占用され、天子の府庫には入らない。原文:王異姓之手天宗有間也。然宗王難受封大国、同升虚邑。何也未嘗祖別子手廟。人民則天子使吏治之、其府難得置監郡与府属、皆請而命諸朝。而刑人。殺人。動兵、何敢越律。其民五家賦禄、為斤統一、猶不聴下令擅徴発其地、皆輸之天府、歳終頒之。其網亦密。遇高麗氏則不然。有宗廟蒸嘗、以奉其先也。有百官布列、以率其職也。其刑賞号令、専行其国、征賦則尽是三韓之境惟所用之、不入天府。 — 『牧庵集』巻3「高麗瀋王詩序」 「高麗瀋王詩序」は、「投下領にはカアン(天子)が官吏を派遣し、諸王が置く監郡・代官(ダルガ)もカアンの承認を得なければならない」、「投下領主の司法・軍事権は制限を受ける」、「投下領から得られる税収の内、五戸絲(アガル・タマル)が投下領主の取り分となる」といった投下領の一般的なあり方と高麗国が異なると述べながら、一方で高麗国と他の投下領を同列に見なすという認識が示される。実際に、モンゴル支配下の高麗では大元ウルスによって設置された万戸府(トゥメン)が独自に徴兵した民から高麗王家が徴税することを拒むなど、高麗王権は高麗国内に排他的な占有権を有していたわけではなかったことが知られているが、これもカアンと諸王の権益が複雑に交錯する他の投下領と類似する点である。 また、モンゴル時代の遼東半島には多数の高麗人が移住し、高麗人コロニーを形成していたことが知られているが、このような「高麗国外の高麗人」を高麗国王は大都まで向かうサウリ(ジャムチ/駅伝の一種)として大元ウルスの承認の下微発していた。国外の高麗人を公的に徴発するというのは奇異にも思えるが、これも「高麗国外の高麗人」を「高麗王家の投下」として徴発していたと捉えれば、他のモンゴル諸王の投下領のあり方と合致する。なお、高麗王家には14世紀以後「瀋王」という王号が新たに与えられ、やがて「瀋王」と「高麗王」は政治的に対立するようになるが、「瀋王」は「瀋陽路に住まう高麗人」を投下領として与えられていたと考えられている。 ただし、このようにモンゴル投下領主としての形式を有する一方で、高麗王家が独自の統治体系を保持していたのも事実であり、安易に高麗王家と投下領主を同一視してはならないという批判もある。見方を変えれば、高麗王家は「投下領主」としての形式を整えることで独自の統治体系を保持し得たともいえ、森平雅彦はこのような高麗王国のありかたを「高麗王家もまたかかる国家構造(諸投下の複合体としてのモンゴル帝国)の内部に存立の場をもち、これを構成する一分権勢力として存在した」と評している。
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