東方追放政策の頓挫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 02:49 UTC 版)
8月15日にはベルリンの国民啓蒙・宣伝省で、ベルリンのユダヤ人7万人をどう「処理」するかという諸官庁とナチ党機関の代表者を集めた会議が行われた。ヨーゼフ・ゲッベルスはユダヤ人が戦争を阻害していると主張、一刻も早く東方に送ることを要求したが、配給食糧を減らすことが認められたのみであった。ゲッベルスはヒトラーにも同様の主張したが、結局ドイツ国内のユダヤ人にもポーランドのユダヤ人と同様の「黄色いユダヤ標章」をつけさせることのみが認められた。この措置は9月1日に開始されている。 一方で占領地に存在する親衛隊からは、ユダヤ人を「餓死させるよりも素早く片付ける」ことを要求する声が強まりつつあった。ロルフ=ハインツ・ヘップナーはソ連占領地域にユダヤ人を送る「最終的解決」をアイヒマンに進言し、セルビア軍事当局も同様の要求を行っている。しかし戦況はそのような行動が許される状況ではなく、9月14日から9月15日にかけてヒトラーは、国内で争乱が予想される事態になった場合、強制収容所の生存者を一掃する必要があると述べている。また、ヘップナーもユダヤ人を給養しておく余裕がなくなると警告し、「餓死させるより素早く片付ける」べきとも提案している。9月17日にはヒトラーは大ドイツ国領域内のユダヤ人を東方に送る許可を出し、親衛隊もこれに従ったが、ユダヤ人を労働力として使用していた国防軍経済部などの経済当局や文民政府は難色を示した。また、受け入れ先となるウクライナを管轄していた東部占領地域省 (Reichsministerium für die besetzten Ostgebiete) もユダヤ人の受け入れを拒否した。このため、移送されたユダヤ人の多くは「受け入れ先」で銃殺などの形で「処分」された。
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