陰謀の首謀者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/31 08:52 UTC 版)
「ルイーズ・ベネディクト・ド・ブルボン」の記事における「陰謀の首謀者」の解説
マントノン夫人は自分の養育したメーヌ公を溺愛しており、ルイ14世もメーヌ公爵にプランス・デュ・サン(Prince du sang)の身分を授けて、彼にフランス王位継承資格を認めた。ルイ14世は、幼い曾孫のルイ15世が即位した時にはメーヌ公を摂政に任命する内容の遺言をしたためていた。しかし1715年にルイ14世が死去すると、パリ高等法院はルイ14世の遺言を無効としてオルレアン公フィリップ2世を幼王の摂政に指名した。 メーヌ公爵夫人は、夫のメーヌ公から摂政の地位を奪い、さらにルイ14世の嫡出追認を受けた庶子を王族ではなく上級貴族(Pairie de France)の地位に落とすことで、メーヌ公の立場にも打撃を与えようとするオルレアン公の策謀に大きな不満を持った。当時、在仏スペイン大使のチェッラマーレ公爵がオルレアン公を摂政から追い落とし、代わりにルイ15世の実の叔父であるスペイン王フェリペ5世を摂政に就けようと企んでいた。メーヌ公爵夫人はいわばクーデタとも言えるこの陰謀に参加し、メーヌ公も引き入れた。 この陰謀はメーヌ公爵夫人の主導で進められていった。陰謀に多くの支持者を集めるべく、彼女はスペインの宰相ジュリオ・アルベローニ枢機卿と連絡を取り始め、リシュリュー公爵やメルキオール・ド・ポリニャック枢機卿をも味方に引き入れた。しかし陰謀は1718年に露見し、メーヌ公夫妻はソー城には居られなくなった。1719年、メーヌ公はデュラン(現在のピカルディー地域圏ソンム県)の要塞に、公爵夫人はディジョンに幽閉された。2人の息子はジアンの城で養育係の世話を受けて暮らし、娘はパリ16区の女子修道院に引き取られた。 翌1720年にメーヌ公夫妻は解放され、元通りにソー城で平和な暮らしを送ることを許された。解放後、公爵夫妻はそれまでの敵意に満ちた夫婦関係を改め、互いに歩み寄るようになった。1736年に夫が亡くなった後も、ルイ15世はメーヌ公爵未亡人と3人の子供たちに対し、ヴェルサイユ宮殿の割り当てられた翼を使うことを許した。公爵未亡人は1753年、パリのオテル・ビロン(現在のパリ・ロダン美術館)で死去した。
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