陰謀の計画と発覚とは? わかりやすく解説

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陰謀の計画と発覚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 16:36 UTC 版)

橘奈良麻呂の乱」の記事における「陰謀の計画と発覚」の解説

麻呂専横に不満を持った奈良麻呂は、不満を持つ者たちを集めて麻呂除こう画策する同年6月28日7月22日)、山背王孝謙天皇に「奈良麻呂が兵をもって麻呂の邸を包囲しようと計画している。大伴古麻呂その事情を知っている」と密告した。翌29日7月23日)に太政官院太政官庁舎)の庭に橘奈良麻呂大伴古麻呂小野東人黄文王安宿王20名ほどが集まり7月2日7月26日)の宵に挙兵することを誓約した7月2日7月26日)、孝謙天皇光明皇太后が、諸臣に対して謀反の噂があるが、皆が逆心を抱くのをやめ、朝廷に従うように」との詔勅発した光明皇太后も、「おまえたち藤原橘の一族は私の姪(おい)同然近親者である。故太上天皇はしばしおまえたち召して、『朕の亡き後皇太后仕えてお助け申しあげよ』と仰せられた。また大伴佐伯一族ははるか昔から歴代天皇親衛隊として仕えてきた者どもであり、特に大伴氏は私の実家姻戚でもある(鎌足母親大伴氏であることを示している)。みな心を同じくして天皇助けまつろうという心がけがあったならば、このたびのような醜聞起こらぬはずだった。おまえたちよからぬことから、このようになるものと思われる。みな明(あか)き清き心で天皇助け仕えまつらなくてはならない」との宣命出した。 しかし、その日夕方中衛府舎人上道斐太都から、前備前守小野東人謀反への参加呼びかけられたと仲麻呂密告があった。仲麻呂はただちに孝謙天皇報告して中衛府の兵を動かして皇太子道祖王の邸を包囲し小野東人らを捕らえて左衛士府の獄に下した。翌7月3日7月27日)、右大臣藤原豊成中納言藤原永手らが小野東人訊問東人無実主張した。その報告受けて孝謙天皇は仲麻呂傍ら置いて塩焼王安宿王黄文王橘奈良麻呂大伴古麻呂前に謀反企てがあるとの報告があるが自分信じない」との宣命読み上げた。 ところが同日事態急変する右大臣豊成訊問から外され再度、永手らを左衛士府派遣し小野東人答本忠節(たほのちゅうせつ)らを拷問にかけた。東人らは一転して謀反自白したその内容は、橘奈良麻呂大伴古麻呂安宿王黄文王らが一味して兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺して皇太子退け次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴玉璽奪い右大臣豊成奉じて天下号令し、その後天皇廃し塩焼王道祖王安宿王黄文王の中から天皇推戴するというものであった

※この「陰謀の計画と発覚」の解説は、「橘奈良麻呂の乱」の解説の一部です。
「陰謀の計画と発覚」を含む「橘奈良麻呂の乱」の記事については、「橘奈良麻呂の乱」の概要を参照ください。

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