陰謀の計画と発覚
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仲麻呂の専横に不満を持った奈良麻呂は、不満を持つ者たちを集めて仲麻呂を除こうと画策する。同年6月28日(7月22日)、山背王が孝謙天皇に「奈良麻呂が兵をもって仲麻呂の邸を包囲しようと計画している。大伴古麻呂もその事情を知っている」と密告した。翌29日(7月23日)に太政官院(太政官の庁舎)の庭に橘奈良麻呂・大伴古麻呂・小野東人・黄文王・安宿王ら20名ほどが集まり、7月2日(7月26日)の宵に挙兵することを誓約した。 7月2日(7月26日)、孝謙天皇と光明皇太后が、諸臣に対して「謀反の噂があるが、皆が逆心を抱くのをやめ、朝廷に従うように」との詔勅を発した。光明皇太后も、「おまえたち藤原・橘の一族は私の姪(おい)同然の近親者である。故太上天皇はしばしばおまえたちを召して、『朕の亡き後は皇太后に仕えて、お助け申しあげよ』と仰せられた。また大伴・佐伯の一族ははるか昔から歴代天皇の親衛隊として仕えてきた者どもであり、特に大伴氏は私の実家の姻戚でもある(鎌足の母親が大伴氏であることを示している)。みな心を同じくして天皇を助けまつろうという心がけがあったならば、このたびのような醜聞は起こらぬはずだった。おまえたちがよからぬことから、このようになるものと思われる。みな明(あか)き清き心で天皇を助け仕えまつらなくてはならない」との宣命を出した。 しかし、その日の夕方、中衛府の舎人上道斐太都から、前備前守小野東人に謀反への参加を呼びかけられたと仲麻呂へ密告があった。仲麻呂はただちに孝謙天皇に報告して、中衛府の兵を動かして前皇太子道祖王の邸を包囲し、小野東人らを捕らえて左衛士府の獄に下した。翌7月3日(7月27日)、右大臣・藤原豊成、中納言・藤原永手らが小野東人を訊問。東人は無実を主張した。その報告を受けて、孝謙天皇は仲麻呂を傍らに置いて、塩焼王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を前に「謀反の企てがあるとの報告があるが自分は信じない」との宣命を読み上げた。 ところが同日事態は急変する。右大臣豊成が訊問から外され、再度、永手らを左衛士府に派遣し小野東人、答本忠節(たほのちゅうせつ)らを拷問にかけた。東人らは一転して謀反を自白した。その内容は、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿王、黄文王らが一味して兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺して皇太子を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。
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