陰謀の露呈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/05 06:44 UTC 版)
「ベネディクト・アーノルド」の記事における「陰謀の露呈」の解説
アーノルドとアンドレは9月21日にやっとジョシュア・ヘット・スミスの家で会見した。9月22日の朝、バープランクスポイントの前進基地任務にあたっていたジェイムズ・リビングストン大佐が、アンドレをニューヨークに連れ戻すつもりだったイギリスの艦船HMSベンチュアを砲撃した。このできごとでベンチュアが川下に退避せざるを得なかったので、アンドレは陸路ニューヨークに戻るしかなくなった。アーノルドはアンドレが前線を通過できるように通行証を書き、またウェストポイントに関する作戦も手渡した。アンドレは9月23日にタリータウン近くで捕まり、陰謀が露呈した。 アーノルドは翌9月24日の朝、アンドレの逮捕を知った。ジョン・ジェイムソン大佐からの伝言でアンドレがジェイムソンの監督下にあり、アンドレが持っていた文書はジョージ・ワシントンに送ったと告げてきた。アーノルドはワシントンの来訪を待っている時にジェイムソンの伝言を受け取った。ワシントンとは朝食を共にする計画だった。アーノルドは大急ぎで川岸に向かい、はしけの船頭にベンチュアが停泊している川下に連れて行くよう命令した。その朝早く、ジョン・ボーンズの支援もあって、イギリス艦に乗船し出発できた。その艦上でアーノルドはワシントンに当てて手紙を書き、ペギーがフィラデルフィアの家族の所まで安全に移動できるよう頼んだ。この依頼をワシントンは認めた。ワシントンはアーノルドが裏切った証拠を見せられた時冷静だったと報告されている。しかし、裏切りの程度を調査させ、アンドレ少佐の運命に関してクリントン将軍と交渉した時に、アンドレとアーノルドを交換する用意があることを伝えた。この提案をクリントンは拒否し、アンドレは10月2日にタッパンでスパイとして絞首刑に処せられた。ワシントンはアーノルドを誘拐する為にニューヨークに要員を潜入させることもした。この作戦は成功しそうになったが、アーノルドが12月にバージニアに向かう為に事前に宿所を変えていたので失敗した。 アーノルドは『アメリカの住人に宛てて』と題する公開文書でその行動を正当化しようとした。この文書は10月に新聞に掲載された。ワシントンに宛ててペギーを無事に送り届けることを依頼した手紙で、「私の国に対する愛が私の現在の行動を駆り立てた。しかし世間にはそれが矛盾して映るかもしれない。世間は如何なる者の行動も正しく判断することは滅多に無い。」と書いていた。
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