陰謀と収束
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:08 UTC 版)
陰謀は1478年4月26日、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でのミサの席上、実行された。サルヴィアーティ(ピサ大司教)とフランチェスコ・デ・パッツィ(パッツィ銀行ローマ支店長)らがメディチ兄弟を襲撃、ロレンツォの弟のジュリアーノを殺害する。ロレンツォは傷を負うが、かろうじて難を逃れた。暗殺者らは市民にメディチ家への反乱を呼びかけるも失敗、捕らえられて即刻処刑された。パッツィ家関係者らへの報復は容赦のないもので、パッツィ家当主をはじめ100人近くが捕らえられて処刑された。 この事態に、パッツィ家と結んでいた教皇シクストゥス4世は激怒し、フィレンツェを破門し、ナポリ王国と同盟して宣戦布告した(パッツィ戦争)。ロレンツォは大きな危機に直面したが、自らナポリに乗り込み、ナポリ王フェルディナンド1世と会見を行った。この勇気にナポリ王も感心し、和平を結ぶことに成功した。 その後もしばらく不穏な状況があったが、1484年に問題の一端を担った教皇シクストゥス4世が薨去したため、事態は収束に向かった。最大の危機を乗り切ったロレンツォの支配体制は、この後、確固たるものとなった。
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