陰謀と寝返り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/01 03:04 UTC 版)
「ゴットロープ・ハインリヒ・フォン・トートレーベン」の記事における「陰謀と寝返り」の解説
1751年5月1日、トートレーベンはクレーヴェで申請を出した後、プロイセン王国のフリードリヒ大王から滞在許可を得る。続いて二番目の妻が没すると、彼はマリア・ヴィクトアと結婚し、ベルリンへ移住し、その称号と妻の財産をもってプロイセンの最も有力な人物たちと交流した。その際、妻との関係を疎かにしたため、マリアは1755年に離婚の手続きを始めてしまった。この離婚騒ぎはベルリンで公然となる。そして妻に味方する人々がつかんだ、「宮廷に対する」「無作法な言動」の代償としてトートレーベンに、「二度と宮廷に行かず、ベルリンを去るよう命令が下る。妻の財産には、それ以前から手出しできなくなっていた。 「プロイセンの宮廷に不満を抱き」、彼はプロイセンの敵に自らの仕官を持ちかける。オーストリア軍のため、連隊を募集しようという提案はウィーンで好意的な反応を得た。しかしその計画は、慢性的な金欠のため頓挫し、70名の歩兵を集めるのがやっとであった。彼はネーデルラントへ戻り、ロシアの使者に接触する。後に七年戦争が勃発すると、トートレーベンはネーデルラントでの職を辞してロシア軍 (Imperial Russian Army) に志願した。この危険な行動の結果、彼は年金のみならずテューリゲンとニーダーシュレージエンの所領も失う。それらは戦争中、プロイセンに没収されたのである。
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