小野東人とは? わかりやすく解説

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小野東人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 14:19 UTC 版)

 
小野東人
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 天平勝宝9歳7月4日757年7月24日
官位 従五位上備前守
主君 聖武天皇孝謙天皇
氏族 小野氏
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小野 東人(おの の あずまひと)は、奈良時代貴族。系譜は明らかでない。官位従五位上備前守。2度も反乱事件に巻き込まれ罰せられた。

経歴

聖武朝天平9年(737年従五位下に叙せられ、天平10年(738年左兵衛率に任ぜられる。天平12年(740年)に発生した藤原広嗣の乱連座して、翌天平13年(741年)になってから平城京内の獄舎に投獄され[1]、平城京の東西の市でで50回ずつ打たれた後、伊豆国三島へ配流された[2]

その後赦免され、天平18年(746年内位の従五位下に叙せられ、翌天平19年(747年治部少輔に任ぜられる。

孝謙朝天平勝宝6年(754年備前守に任ぜられて地方官に転じる。天平勝宝9歳(757年)5月に藤原仲麻呂紫微内相の就任と同時に東人も従五位上に叙せられる。

同年、東人は皇太子大炊王藤原仲麻呂を殺害する策謀に参画し、7月2日に中衛舎人上道斐太都に同調を促す。しかし、上道斐太都に子細を藤原仲麻呂に密告されてしまい、東人は仲麻呂の命令を受けた高倉福信の兵士に捕縛され左衛士府に拘禁される[3]。7月4日に東人は中納言藤原永手からの厳しい尋問を受けて策謀を白状させられたのち、杖で長時間打たれる拷問の末、獄死した[4]橘奈良麻呂の乱)。この時の官職は備前国守。

官歴

続日本紀』による。

脚注

  1. ^ 続日本紀』天平13年3月8日条
  2. ^ 『続日本紀』天平13年3月9日条
  3. ^ 『続日本紀』天平勝宝9歳7月2日条
  4. ^ 『続日本紀』天平勝宝9歳7月4日条
  5. ^ 『和名類聚抄』の伊豆国賀茂郡三島郷

参考文献




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