第二次高城合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 07:57 UTC 版)
天正15年(1587年)、大友宗麟の要請を受諾した豊臣秀吉が九州征伐に乗り出す。4月6日に耳川を渡河した豊臣秀長軍およそ8万は高城を包囲すると望楼を建て(高城と切原川を挟んで対峙する松山之陳の郭には、土塁上に物見台が設置できる程度の平坦地の造作は確認できる)、1300名ほどの高城へと鉄砲や火矢を放った。それには持ち堪えたものの、島津軍本体が根白坂で完敗し(根白坂の戦い)放逐されたため、山田有信も息子の有栄を人質に出して、4月29日に城を退去し敗北した。5月1日に秀長軍の宮部継潤が城に入った。その後、秀吉の行った国割りにより高城は秋月種実の所有に帰すが、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となった。
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