第二次黒井城の戦い
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赤井直正や弟の赤井幸家は、吉川元春に援軍を要請していたが、援軍は到着しないまま翌天正5年(1577年)10月、明智光秀は細川藤孝、細川忠興の増援を得て、第二次丹波国征討戦が開始される。このような緊迫した中、翌天正6年(1578年)3月9日、武功高き赤井直正(荻野直正)が病死してしまう。一説には、「首切り疔」の病ではなかったかと言われている。 赤井直正の子、赤井直義は幼少であったため、弟の赤井幸家が後見となって赤井家を統率することになり、明智光秀軍に備えた。しかし、明智光秀軍は波多野秀治の八上城の攻城から取り掛かった。1年余り包囲策をとり、飢餓状態と内部工作により同年6月1日開城した。 また、明智光秀軍は八上城包囲中に、八上城と黒井城の分断を目的に金山城(柏原町)を築城し、氷上郡の西部を羽柴秀長に、氷上郡の東部を明智秀満に攻略させ、黒井城の支城を押さえ孤立無援にした。 そして、八上城落城から約2ヵ月後の8月9日、黒井城もついに落城した。 「黒井城の戦い」も参照
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