明智光秀との戦いとは? わかりやすく解説

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明智光秀との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 16:24 UTC 版)

赤井忠家」の記事における「明智光秀との戦い」の解説

赤井家清の子として誕生9歳時に父・家清が戦の傷がもとで死去したため家督継ぎ叔父荻野直正補佐受けた永禄13年1570年3月木下秀吉仲介織田信長所領安堵される。 元亀2年1571年11月氷上郡山垣城(丹波市青垣町山垣)の足立氏攻撃してきた山名祐豊軍勢を、直正とともに撃退する元亀4年1573年)に信長将軍足利義昭対立起きると、赤井氏荻野氏は義昭方の立場取った天正3年1575年11月織田家臣明智光秀により直正の居城黒井城包囲されたが、翌天正4年1576年1月明智方にいた多紀郡八上城波多野秀治寝返りにより明智軍撤退した第一次黒井城の戦い)。同年4月、忠家・直正は信長詫言伝え和睦した天正6年1578年3月には直正が死去しこの頃より赤井氏荻野氏は波多野氏結んで織田氏への抵抗姿勢明らかにする同年4月には、明智光秀攻められる荒木城荒木氏綱波多野秀治とともに加勢し(『本城惣右衛門覚書』)、また波多野秀治荻野直信とともに明智領分」に侵入して勝利を収めたという。 それに対し光秀は、天正6年1578年9月頃より波多野氏八上城包囲始め赤井氏荻野氏と波多野氏連携を防ぐため氷上郡多紀郡の境に金山城を築くなどした。 天正7年1579年6月1日八上城落城し、多紀郡をほぼ制圧した光秀は、軍勢氷上郡へと進める。同年8月9日明智軍攻撃により黒井城陥落した第二次黒井城の戦い)。8月24日には忠家が城主といわれる高見城丹波市氷上町佐野高見城山)も攻められており、まもなく落城したとみられる敗れた忠家は遠江国二俣へと逃れた

※この「明智光秀との戦い」の解説は、「赤井忠家」の解説の一部です。
「明智光秀との戦い」を含む「赤井忠家」の記事については、「赤井忠家」の概要を参照ください。

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