第一次黒井城の戦い
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永禄13年(1570年)3月、織田信長に拝謁した赤井直正(この時は改姓し荻野直正と名乗っていた)と赤井忠家は服命し、氷上郡、天田郡、何鹿郡の丹波奥三郡を安堵した。ところが山名祐豊らが、氷上郡にあった山垣城(青垣町)の足立氏を攻め立てた。黒井城の赤井直正と赤井忠家は即応し、山垣城に救援に向かい山名祐豊軍を撃退した。その後勢いにのって、但馬国の竹田城を攻城し手中に収めると、山名祐豊の本拠地である此隅山城に迫った。山名祐豊は織田信長に援軍を要請、織田信長は当時信長包囲網にあい、とても援軍を出せる余裕はなかったが、天正3年(1575年)明智光秀を総大将に丹波国征討戦に乗り出すことになる。 赤井直正は竹田城から黒井城に帰城、戦闘態勢を整えた。明智光秀は黒井城を包囲し、攻城戦が2ヵ月以上となった翌天正4年(1576年)1月15日、波多野秀治軍が明智光秀軍の背後をつき、総退却となった。「赤井の呼び込み戦法」と言われている。
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