第一次高城合戦
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天正6年(1578年)、豊後の大友宗麟は伊東氏の旧領回復と自らのキリスト教国建設のために日向への侵攻を開始する。大友軍は島津に寝返った土持氏を滅ぼし、耳川を渡河して10月11日に高城近くの国光原台地に着陣(松山之陳、川原之陳他)する。当初、高城の城兵は500名ほどであったが、耳川から退いてきた島津家久勢が城に入り1500名余の人数に達していた。同月20日、大友軍は高城への攻撃を開始する。 卯の刻(AM7:00頃)、高城城下に迫った大友軍は麓の民家100余に火を放って焼失させ、城に向けて矢玉を放つ。 午の刻(PM0:00頃)、新手を投入し攻めかかるが鉄砲による抵抗にあい一時退く。 酉の刻(PM6:00頃)、最初の城門を抜き次の門の城戸まで迫るも、ここでも鉄砲による攻撃を受け、一時退却した。 この戦いで高城の水の手は断たれたが、城の古い垣根から水が湧き出て窮地を凌いだとされる。また、これ以後の大友軍は作戦を包囲戦に切り替えたため、矢玉による応戦のみとなった。11月12日、高城川の川岸に着陣していた大友軍と島津軍の合戦が始まり、大友軍は谷瀬戸川及び高城川を渡河した所を島津義久、島津義弘、島津以久らの攻撃を受け、態勢を整える為に本陣に撤退する際に高城の城兵が攻撃し、大友軍は敗北を喫した(高城川の戦い)。 ※現在の木城町下鶴には討ち取られた島津方の北郷久盛の墓があるが、久盛の軍勢が敗走を装ったという確証は無い。実際には戦況が拮抗しているところへ老瀬坂上の陣地から島津以久の軍勢が横から攻撃した。それを受けて大友軍が態勢を整える為に豊後方面へ撤退する際に、一部部隊が竹鳩ケ淵で溺死者を出している。そもそも薩藩旧記雑録には詳細な戦況の記載が全く無いため、信憑性・正確性が無く、注意が必要である。(通常、上級武士の日記や右筆の記録で複数のものに同一記述があれば良好な史料として取り扱うことに注意。)
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