第一次高城合戦とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 第一次高城合戦の意味・解説 

第一次高城合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 07:57 UTC 版)

高城 (新納院)」の記事における「第一次高城合戦」の解説

天正6年1578年)、豊後大友宗麟伊東氏旧領回復と自らのキリスト教建設のために日向への侵攻開始する大友軍は島津寝返った土持氏滅ぼし耳川渡河して10月11日高城近く国光台地着陣松山之陳、川原之陳他)する。当初高城城兵500名ほどであったが、耳川から退いてきた島津家久勢が城に入り1500名余の人数達していた。同月20日大友軍は高城への攻撃開始する卯の刻(AM7:00頃)、高城城下に迫った大友軍は麓の民家100余に火を放って焼失させ、城に向けて矢玉放つ午の刻(PM0:00頃)、新手投入し攻めかかる鉄砲による抵抗にあい一時退く。 酉の刻PM6:00頃)、最初城門抜き次の門の城戸まで迫るも、ここでも鉄砲による攻撃を受け、一時退却した。 この戦いで高城水の手断たれたが、城の古い垣根から湧き出て窮地凌いだとされるまた、これ以後大友軍は作戦包囲戦切り替えたため、矢玉による応戦のみとなった11月12日高城川川岸着陣していた大友軍と島津軍合戦始まり大友軍は谷瀬戸川及び高城川渡河した所を島津義久島津義弘島津以久らの攻撃を受け、態勢整え為に本陣撤退する際に高城城兵攻撃し大友軍は敗北喫した高城川の戦い)。 ※現在の木城町には討ち取られ島津方の北郷久盛の墓があるが、久盛の軍勢敗走装ったという確証は無い。実際に戦況拮抗しているところへ老瀬坂上陣地から島津以久軍勢横から攻撃した。それを受けて大友軍が態勢整え為に豊後方面撤退する際に、一部部隊が竹ケ淵で溺死者を出している。そもそも薩藩旧記雑録には詳細な戦況記載が全く無いため、信憑性正確性無く注意が必要である。(通常上級武士の日記右筆記録複数のものに同一記述があれば良好な史料として取り扱うことに注意。)

※この「第一次高城合戦」の解説は、「高城 (新納院)」の解説の一部です。
「第一次高城合戦」を含む「高城 (新納院)」の記事については、「高城 (新納院)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「第一次高城合戦」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第一次高城合戦」の関連用語

第一次高城合戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第一次高城合戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの高城 (新納院) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS