第一次頂上作戦以降
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1964年(昭和39年)の山口組を壊滅する為の「第一次頂上作戦」においては、資金源の要であった神戸港の港湾事業に司直のメスが入り、傘下の甲陽運輸が業務監査を受け、山口組は港湾業務から撤退した。 1966年(昭和41年)12月28日、自らが経営する甲陽運輸の脱税容疑で神戸地検に起訴される。 1968年(昭和43年)12月、職業安定法違反で神戸地検に起訴される。 1969年(昭和44年)4月25日、恐喝と威力業務妨害で神戸地検に起訴される。 若頭・地道行雄(地道組組長)が山口組解散へと動くが、幹部会で山本健一(山健組組長)、菅谷政雄(菅谷組組長)、梶原清晴(梶原組組長)、山本広(山広組組長)ら若頭補佐が反対。この結果、地道は失脚し、山本健一の力が増した。1965年(昭和40年)には、田岡が心筋梗塞で病床にあった事もあり、集団指導体制へ移行した。 自伝(昭和49年発行の初版)によると、神戸水上消防署の一日署長をした経験を持つ。 「第一次頂上作戦」後も勢力の拡張を続けるが、1978年(昭和53年) 7月11日には京都のクラブ「ベラミ」で7月23日傘下の佐々木組と対立していた二代目松田組系大日本正義団の組員・鳴海清に後ろから撃たれ負傷する。銃撃は38口径の拳銃で行われ、田岡に当たった銃弾は首の後ろ右から左へ抜け、右側に縦1.5cm、横0.6cm、左側に縦1.3cm、横0.6cmの貫通銃傷をつくり命に別状はなかったが、流れ弾は後ろにいた2人の医師に当たり重軽傷を負わせた。なお、事件発生当時、田岡のボディーガードとして付いていた細田利明(細田組組長)は、イタリア製自動拳銃で武装していたため銃刀法違反で逮捕。田岡も回復後に不法所持を黙認していたとして捜査を受けている。 これにより「第3次大阪戦争」と呼ばれる大規模な拳銃乱射事件が始まり、同年11月に山口組が終結の記者会見を開くまで続いた。田岡は関西労災病院にて治療後、料亭にベラミ関係者を呼んで謝罪した。 1981年(昭和56年)7月23日、急性心不全により68歳で死去。戒名は永照院仁徳一道義範大居士。若頭の山本健一が跡目に決まっていたが、翌1982年(昭和57年)病死。跡目相続には長い年月と争いが起こることになった(山口組四代目跡目問題)。また、四代目の跡目争いには妻で未亡人であった文子の意向が強く働いている。 山口組はハロウィンで近隣の子供たちにお菓子を配っているが、これは田岡が始めたものである。1970年代は、日本ではハロウィンはまだ知られていなかったが、山口組総本部は高級住宅街に近く、外国の領事館員や駐在員の住民の子供たちが、そうと知らずに山口組にもハロウィンで訪ねて来た。最初は小遣いをやって帰らせていたが、田岡がハロウィンについて調べさせ、以降はお菓子を用意するようになったという。 2013年(平成25年)7月23日、神戸市灘区の自宅において三十三回忌法要が弔い上げとして執り行われる。施主は長女田岡由伎、司会は長沢純。
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