能勢頼道と丸山城とは? わかりやすく解説

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能勢頼道と丸山城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 13:56 UTC 版)

丸山城 (摂津国能勢郡)」の記事における「能勢頼道と丸山城」の解説

1578年天正6年)、それまで織田信長出仕していた有岡城兵庫県伊丹市)の荒木村重は突然信長反旗を翻し有岡城の戦い起こった。このとき、丸山城21城主であった能勢頼道は、高槻城高槻市)の城主高山右近茨木城茨木市)の城主中川清秀同調し荒木村重従った。しかし、その後高山右近中川清秀はともに信長方の説得に応じて開城している。翌天正7年1579年4月有岡城攻城中に織田信忠津田信澄を両大将に、筒井順慶丹羽長秀蜂屋頼隆、原胤広、金森長近中川清秀1万5,000の兵が能勢出軍してきた。このとき、能勢郡西郷諸城次々落城し、織田信長支配下入っていったが、東郷丸山城については不明である。「能勢頼道あくまでも信長態度維持することができたのか、その動き知りうる史料はない」として、この間能勢頼道動き不明とされている。 1579年天正7年)、第二次黒井城の戦い丹波国平定し信長は、中国攻めのための補給線上にあるとして丸山城重要視し山下城兵庫県川西市)の城主信長方の塩川国満通じて織田氏帰属するように勧めたが、頼道はこれに応じなかった。翌天正8年1580年9月17日、国満は頼道山下城招きいれ、殺害してしまった。

※この「能勢頼道と丸山城」の解説は、「丸山城 (摂津国能勢郡)」の解説の一部です。
「能勢頼道と丸山城」を含む「丸山城 (摂津国能勢郡)」の記事については、「丸山城 (摂津国能勢郡)」の概要を参照ください。

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