能勢頼長・頼次と丸山城とは? わかりやすく解説

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能勢頼長・頼次と丸山城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 13:56 UTC 版)

丸山城 (摂津国能勢郡)」の記事における「能勢頼長・頼次と丸山城」の解説

能勢頼道の弟能勢頼次は、頼道謀殺されたとき19歳であったが、塩川打倒兵を挙げ大槌峠で戦闘となり塩川国満軍を破った。しかし、天正8年9月19日明智光秀軍に属していた河原宣勝隊が大軍率いて丸山城周辺迫ってきた。これに危機感覚えた能勢頼次は、翌1581年天正9年丸山城捨てて能勢妙見堂に為楽山城を築き織田信長軍備えとした。しかしその後明智光秀交渉に応じて連携し、兄である能勢頼長に兵500をつけその幕下となった。翌1582年天正10年)、本能寺の変の際、明智光秀味方したため、羽柴秀吉軍攻められ再び丸山城落城した。為楽山城にいた能勢頼次は城を退去し落ち延びることとなった。 「山下城 (摂津国)#廃城」も参照 能勢頼長はその後三宅十郎」という変名名乗り諸国回った伝わっている。桑田郡長沢氏に身をよせたり、郡山城 (大和国)豊臣秀長仕えたり、備前国妙勝寺滞留したとの言い伝えがのこるが、『能勢町史』では「諸説さまざまあるが、いずれにしてもたしかな証拠はない」としている。また、天正14年1586年10月九州征伐出向いていた能勢頼次留守時に積年争い解決すべく塩川国満が丸山城田尻城落城させたが、これに激怒した豊臣秀吉は、片桐且元池田輝政堀尾吉晴らの討伐軍を繰り出して山下城迫り塩川国満は戦闘となる前に切腹し死亡した。 なお、『川西市史』では頼長の諸国放浪説とは別説紹介しており、このころの頼長の詳しい行動については不明な点が多い。

※この「能勢頼長・頼次と丸山城」の解説は、「丸山城 (摂津国能勢郡)」の解説の一部です。
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