能勢頼長・頼次と丸山城
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「丸山城 (摂津国能勢郡)」の記事における「能勢頼長・頼次と丸山城」の解説
能勢頼道の弟能勢頼次は、頼道が謀殺されたとき19歳であったが、塩川氏打倒の兵を挙げ、大槌峠で戦闘となり塩川国満軍を破った。しかし、天正8年9月19日、明智光秀軍に属していた河原宣勝隊が大軍を率いて丸山城周辺に迫ってきた。これに危機感を覚えた能勢頼次は、翌1581年(天正9年)丸山城を捨てて能勢妙見堂に為楽山城を築き、織田信長軍の備えとした。しかしその後、明智光秀の交渉に応じて連携し、兄である能勢頼長に兵500をつけその幕下となった。翌1582年(天正10年)、本能寺の変の際、明智光秀に味方したため、羽柴秀吉軍に攻められ再び丸山城は落城した。為楽山城にいた能勢頼次は城を退去し落ち延びることとなった。 「山下城 (摂津国)#廃城」も参照 能勢頼長はその後「三宅助十郎」という変名を名乗り、諸国を回ったと伝わっている。桑田郡の長沢氏に身をよせたり、郡山城 (大和国)の豊臣秀長に仕えたり、備前国の妙勝寺に滞留したとの言い伝えがのこるが、『能勢町史』では「諸説さまざまあるが、いずれにしてもたしかな証拠はない」としている。また、天正14年(1586年)10月に九州征伐に出向いていた能勢頼次が留守の時に、積年の争いを解決すべく塩川国満が丸山城、田尻城を落城させたが、これに激怒した豊臣秀吉は、片桐且元、池田輝政、堀尾吉晴らの討伐軍を繰り出して山下城に迫り、塩川国満は戦闘となる前に切腹して死亡した。 なお、『川西市史』では頼長の諸国放浪説とは別説を紹介しており、このころの頼長の詳しい行動については不明な点が多い。
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