宇喜多・南条の帰順と有岡落城 /天正7年とは? わかりやすく解説

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宇喜多・南条の帰順と有岡落城 /天正7年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 03:40 UTC 版)

中国攻め」の記事における「宇喜多・南条の帰順と有岡落城 /天正7年」の解説

詳細は「有岡城の戦い」を参照 この年前半秀吉は、2月播磨平井山の戦い三木市)で長治叔父別所吉親と、5月摂津丹生山淡河戦い神戸市北区)では明要寺の衆徒、および淡河定範闘った前年別所長治荒木村重寝返りは、毛利軍東上期待してのものであったそれまで毛利両氏援軍送っていたが、天正7年1579年正月にも救援軍派遣決定し甲斐武田勝頼同時に信長挟撃する予定立てていた。しかし、信長豊後大友義鎮(宗麟)と親交結んで毛利背後を脅かすことに成功し正月毛利氏重臣豊前松山城福岡県京都郡苅田町)の城主であった杉重良大友側に通じて北九州挙兵し、これにより毛利勢の東上阻まれた。また、美作川上郡高山城岡山県高梁市)の城主草刈景継信長方への寝返り露見し吉川元春によって成敗された。なお、信長11月、宗麟の子大友義統対し毛利氏支配下周防長門をあたえるとの朱印状出している。 同年織田毛利にあって帰趨の定まらなかった伯耆東部羽衣石城鳥取県東伯郡湯梨浜町城主南条元続9月に、毛利氏同盟関係にあった備前宇喜多直家10月信長服属した。南条宇喜多連携して毛利対することを盟約しのである。この調略過程で、同年9月秀吉は直家の帰順によって信長朱印状をあたえるよう要請したが、信長許可せず、かえって秀吉専断叱責して播磨帰らせるという事態も生じている。また、堺の豪商の家に生まれた小西行長当時直家に仕えていたが、織田方への内通には行長はたらきかけがあったともいわれている。直家の寝返りによって備中美作両国それまでとは一転宇喜多毛利両氏抗争の場となったこの年、直家は毛利氏結んでいた三星城岡山県美作市)の後藤勝基攻め滅ぼしている。 こうして、敵対勢力近くにかかえることなった毛利氏援軍派遣することが困難となり、長治重はともに孤立の度を深めていった。 9月2日重は現状打開のため有岡城出て嫡子荒木村次のまもる尼崎城兵庫県尼崎市)に移った有岡城攻め総大将つとめた信忠は、軍を対有岡城・対尼崎城2つ分け滝川一益双方調略して織田方への離反誘った信長はこのとき、次男信雄にも伊勢の兵を率いて出陣するよう命じたが、信雄は武士百姓にとって負担であると考えかわりに隣国伊賀攻め込むことで取り繕おうとして敗戦し、信長からきびしい叱責受けている。 10月15日織田軍は有岡城総攻撃開始し、守将荒木左衛門対し尼崎城花隈城神戸市中央区)を明け渡すならば本丸一門・家臣の命を助けると呼びかけ、久左衛門10月19日有岡城開城した。開城に際しては、翻意のために秀吉によって派遣され、そのために有岡城内に抑留されていた黒田孝高1年ぶりに救出された。しかし自身毛利輝元のもとへ逃れ、久左衛門失踪したため有岡城人質助命反故にされた。 信長は、戦後12月有岡城人質全員処刑断行した重の一門京都六条河原斬首重臣妻子尼崎近郊磔刑処せられ、その他510名余は枯れ草積んだ家屋閉じ込めて焼き殺すという残酷な報復であったいっぽう別所長治との三木城攻囲戦は、秀吉によって兵糧攻め採用され、これは後世三木の旱殺し」とよばれた重方の花隈城から丹生山の砦(神戸市北区)と淡河城神戸市北区)を経て三木城へと達す補給路は、5月両城砦が秀吉によって落とされたため、機能しなくなったまた、この年9月10日には毛利方の生石中務少輔とのあいだで兵糧補給路をめぐる平田砦の戦い三木市)が起こっており、これは、三木合戦のなかでは最大激戦となった山陰方面では、前年より明智光秀丹波八上城兵庫県丹波篠山市)を攻略しており、この年6月敗れた波多野秀治・秀尚の波多野兄弟磔刑処せられた。7月初旬から8月上旬にかけては細川藤孝細川忠興羽柴秀長明智秀満らの諸将加えた光秀軍が第二次黒井城の戦い勝利して赤井忠家破り荻野直正前年死去)、10月丹波・丹後両国平定をほぼ成し遂げた。これにより丹波明智氏丹後細川氏領国となり、山陰道からの毛利勢の東上路はふさがれることになった

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