宇喜多家臣時代とは? わかりやすく解説

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宇喜多家臣時代(直家期)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 07:36 UTC 版)

明石行雄」の記事における「宇喜多家臣時代(直家期)」の解説

浦上氏滅亡後浦上時代所領そのまま認められたが、宇喜多氏老臣の列には加えられず「客分」として行雄は迎え入れられた。天正6年1578年)の第二次上月城の戦いでは攻城側の後巻として八幡山城(西播磨)に布陣していたが、この時上月城救援来ていた羽柴秀吉家臣竹中重治密かに通じるなど不穏な行動取っていたものの、攻城優位のこの戦いにおいて実際に行動起こしていない。 天正7年1579年)に直家が毛利氏裏切って織田信長通じた際には毛利との戦争備えて備前美作の国付近白石城改修当たった天正8年1580年3月には宇喜多から毛利へと寝返った竹内為能の籠る高城攻囲参加。この攻城戦の際、尾山に陣取った行雄の軍勢籠城兵の夜討ちによる反撃を受け平尾弾正忠討ち取られるなどの被害出した宇喜多軍は高城攻略成功し為能を追放した高城陥落後の同年9月には篠向城に移って城の改修をした。 天正10年1582年)には備中高松城の戦いに直家の嫡子八郎(後の宇喜多秀家)を奉じて羽柴秀吉元に陣し賞賛された。

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宇喜多家臣時代(秀家期)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 07:36 UTC 版)

明石行雄」の記事における「宇喜多家臣時代(秀家期)」の解説

天正11年1583年)、羽柴秀吉毛利氏との話し合い決められ宇喜多毛利両氏領地境界宇喜多方に組み込まれた事に不満を示し交戦構え見せた娘婿である虎倉城主伊賀家久に対して城を開城毛利領へと退去するよう説得し家久を虎倉より退去させる事に一役買った天正14年1586年)に従五位下伊予守叙任以後書状での名乗り明石伊予守行雄となる。 天正16年1586年9月8日には上洛した毛利輝元屋敷宇喜多秀家使者として参上し宇喜多屋敷へと輝元を招待したいという旨を伝えた文禄3年1594年)に行雄は娘婿伊賀家久遺児である才法師丸の行く末を心配して当時家久主君であった小早川秀秋家老である山口宗永書状送って似合い御用」を仰せつけて欲しいと頼んだまた、この書状では「老足の儀」により参上出来ないので御用掃部助(全登)に仰せつけて欲しいとも頼んでいるので、この時既に老衰始まっており明石氏当主掃部助移譲されいたものと見られる。なお、この文禄3年1594年付け書状が行雄の遺した最後書状である。 慶長2年1597年)に始まる慶長の役において、長信という人物名字不明が行雄の出陣があるかどうか尋ね書状残っており、少なくとも慶長2年までは行雄が存命であったことがわかるが、没年不明である。

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