宇喜多氏との戦い
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天正2年(1574年)に宇喜多直家が毛利輝元を後盾として浦上宗景と対立し、4月に天神山城の戦いが開戦すると美作三浦氏は清冬がすぐさま浦上宗景に協力する旨を伝えた。しかしながら、直家の行動はそれに先んじており、既に3月の時点で美作南部の沼本・菅納・原田などの諸氏を寝返らせ、美作岩屋城の芦田正家を追放して家臣の浜口家職に制圧させており、既に備前と美作の連絡路は閉ざされていた為、有効な連携策は取れずにいた。同年12月には浦上宗景や岡本氏秀から高田城番の事について見舞いを受けた。 天正3年(1575年)からは美作三浦氏と岩屋城在番の宇喜多家臣、「岩屋衆」との抗争が激化。1月27日に清冬は牧左馬助らを率いて、宇喜多家臣の花房職秀・沼本房家らの守る多田山の陣を奇襲し、数十人を討ち取って多田山を占拠した。同年2月には浦上宗景や岡本氏秀から織田信長の備前表出陣や山中幸盛の美作救援などが近い事を知らせる書状を盛んに受けて激励されている。3月26日にも真木山城を強襲して伊賀久隆配下の「加茂衆」を破り、三浦貞広から感状を受けている。しかし、同年6月には備中兵乱を鎮圧した毛利氏が三浦領に本格的に侵攻し始め情勢が悪化。同年9月には宇喜多直家によって浦上宗景最後の拠点であった天神山城が陥落し、三浦貞広も牧清冬から宇喜多家臣の江原久清を通じて宇喜多直家に毛利への降伏の周旋を申し入れ、9月11日に本拠高田城を明け渡し投降。高田城は三浦氏には安堵されず毛利家臣の楢崎元兼が城代として入ることとなり、貞広は一度は毛利氏に身柄を送られたが、やがて宇喜多氏預かりとなり、美作三浦氏は勢力として滅亡した。
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