宇喜多直家の独立とは? わかりやすく解説

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宇喜多直家の独立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:15 UTC 版)

天神山城の戦い」の記事における「宇喜多直家の独立」の解説

浦上宗景は元は赤松氏重臣であった浦上政宗から独立して備前旗揚げし、毛利元就などの助力を得ながら次第勢力広げ、やがて兄の勢力凌ぐうになる毛利とも手を切り戦国大名となった勢力である。その後浦上氏永禄10年1567年)の明善寺合戦備中国三村元親撃破し永禄11年1568年)には備前松田氏滅ぼし更に勢力拡大し備前ほぼ一国美作備中播磨一部という4ヶ国に跨る所領を持つ大名へと成長した。 これらの戦いの中で活躍し浦上家中で大きく勢力伸ばしたのが宇喜多直家であり、長船氏や岡氏を傘下率いて松田氏滅ぼした後は備中攻め込み毛利援護受けている三村領までも圧迫するなど強勢であったが、この頃から独自に足利義昭接触するなど独立傾向強め始める。永禄12年1569年)に浦上宗景赤松政秀所領圧迫し足利義昭織田信長に政秀救援要請した際にはついに足利義昭公儀として奉じ、「備前衆」の盟主として浦上氏からの離反宣言する至った同年7月、直家は軍事行動開始備前北部浦上配下垪和原田美作国衆の軍団戦って勝利を収め、また美作でも美作三浦氏再興目指す三浦貞広軍勢合流し毛利氏香川広景の守る高田城攻めたがこちらは途中で包囲解き宇喜多軍は撤退したその後播磨黒田孝高活躍打撃負った赤松政秀織田氏救援が届く前に浦上軍に降伏してしまい(青山・土器山の戦い参照)、直家は孤立。直家はそれ以上交戦避けてすぐさま浦上軍に降伏して非礼詫び、この時の事は宗景と尼子勝久の間で話し合いが行われた結果、罪は赦免された。直家に危害加えれば公儀織田氏明確な敵対意志有ると見られる恐れ有ったため、できる限り穏便な措置を執らざるを得なかったのである。直家は浦上氏を倒すことは出来なかったものの事実上独立はこの時点果たされた。ただ、浦上宇喜多両家の関係は悪化したもののこの時点では破綻せず、共通の脅威である毛利氏対峙するという点で一時的に修復される宇喜多軍は浦上との停戦後主戦場備中移し同年12月毛利元清熊谷信直三村元親らが宇喜多臣従している植木秀長治め備中佐井田城肉薄した時には戸川秀安出陣し三村元親に傷を追わせ穂井田実近を討ち取る勝利を収め毛利三村軍を退かせた。

※この「宇喜多直家の独立」の解説は、「天神山城の戦い」の解説の一部です。
「宇喜多直家の独立」を含む「天神山城の戦い」の記事については、「天神山城の戦い」の概要を参照ください。

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