宇喜多氏との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 14:27 UTC 版)
備中からの圧迫を受ける立場であった宇喜多氏には、強大となった三村氏は疎ましい存在であった。宇喜多直家が、三村家親を除いた手段は鉄砲による暗殺であり、このことは両氏の間に遺恨として続いた。 永禄11年(1568年)、備中の軍勢が毛利氏の九州進攻に参加していた隙をつき、宇喜多直家が備中に侵攻した。「中国兵乱記」によると、松山城の庄高資や斉田城 (佐井田城)の植木秀長(庄氏一門)らは、本領安堵を条件に降伏し宇喜多氏の幕下となった。また尼子氏の遺臣山中幸盛は織田信長の後援を受けると、伯耆・出雲の毛利属城を攻め落とし、遂に月山富田城を囲んだ。さらには大友氏に支援された大内氏再興軍が、周防へ上陸し山口攻撃を開始するに至り、毛利氏は背腹の敵に苦しむ事になった。この状況を打開するために、元就はまず大友氏との講和を図り九州から兵を引き上げると毛利元清(穂井田元清)を備中へ向かわせた。元清は江原の伊勢氏を従え、小田氏を帰服させ、宇喜多勢から猿掛城を奪還した。こうして後月・小田・浅口の備中南西部を回復した元清は、諸兵を従えて植木秀長が立て籠もる斉田城を攻めたが、包囲戦となるうち宇喜多直家の援軍と合戦となり、穂井田実近は戦死、三村元親も深手を負い、元清は退却した。 元亀元年(1570年)冬、(再興)尼子氏の月山富田城攻略は失敗に終わるが、尼子氏と宇喜多氏は手を結び、再び備中を席巻した。尼子式部・大賀駿河守らと宇喜多勢は浅口にも迫り、通薫にも降伏を迫るが、通薫は拒絶し杉山城にこれを迎え撃った。敵方津々加賀守・福井孫左衛門を討ち取るも、奮戦むなしく敗れ去ったとある(陰徳太平記)。 元亀2年(1571年)6月14日、毛利元就は死去する。毛利元清は備中中部で反撃を開始し、松山城を落城させると、元亀3年(1572年)に戦功のあった三村家親の子元親を松山城主とした。備中の覇権は完全に庄氏から三村氏に移る一方、備中と備前の間では、一進一退の抗争を繰り返していた。やがて将軍足利義昭、織田信長の命令に応じ和睦し、つかの間の平和を得る。
※この「宇喜多氏との抗争」の解説は、「細川通薫」の解説の一部です。
「宇喜多氏との抗争」を含む「細川通薫」の記事については、「細川通薫」の概要を参照ください。
- 宇喜多氏との抗争のページへのリンク