宇喜多直家への仕官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 04:00 UTC 版)
元亀元年(1570年)には、浦上・宇喜多勢が備中石川領へと侵攻した。この頃、職秀は宇喜多直家に気に入られ奉公し、始めは足軽大将の使役を勤めていた。備中国撫川芝場の城を攻城中の戸川秀安の元に引き揚げの命令を伝えに来た職秀が今にも落城するとみて先陣し、戸川勢も続き落城させた。 備中国日幡城主日幡八郎左衛門が宇喜多家へ与同し加勢を求め、職秀が本郷九郎左衛門に直家の意向を伝えたところ本郷は乗り気でなく、直家の元に戻った職秀自身が加番を申し出た。職秀と伊賀甚右衛門、赤枝氏らが日幡城に加番し堅固に防衛した。浦上・宇喜多勢は他に松島城などを降伏させ、8月には石川久式の本拠幸山城へ迫った。 職秀は日幡での功により備前国赤坂郡山口、斗有、由津里三ヶ村を賜り山口に城を築いた。そして近隣の苅田・軽部・額田氏と日々合戦し勝利した。在地領主の難波・苅田氏の一族を引き加え、伊田・平岡の領主を味方につけることで、美作国へ出勢した。。
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