宇喜多家時代と関ヶ原
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 23:01 UTC 版)
備前国の戦国大名の宇喜多直家の弟である宇喜多忠家の子として生まれ、従弟の宇喜多秀家に仕えた。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}父・忠家が豊臣秀吉の直臣に取り立てられた天正14年(1586年)頃に家督を相続したと考えられている[要出典]。 文禄3年(1594年)冬頃、詮家は大坂城下でキリシタンの講話を聞いてその教義に傾倒した。日本人修道士のヴィセンテ洞院は、詮家がキリスト教に傾倒していることを知って詮家を小西行長の屋敷に招き、徹夜でキリスト教の教義を議論した結果、詮家は洗礼を強く希望した。それに対してヴィセンテは多くの教理を理解しなければ受洗は難しいと説明したが、詮家はできるだけ早く洗礼を受けることを求めて受洗し、パウロの洗礼名を名乗った。 当時の豊臣政権は、天正15年(1587年)のバテレン追放令によってキリスト教の信仰を制限していたため、ヴィセンテは詮家の身の安全のため入信を隠すように約束させたが、詮家は約束を破って備前国に帰国して入信を宣伝し、布教のようなことを始めたという。なお、詮家の受洗の経緯はこの頃のイエズス会宣教師オルガンティーノの書簡に詳しく記されている。 文禄5年(1596年)、詮家は自身の屋敷にイエズス会の宣教師を招き、同僚の明石全登への宣教を依頼し、松田毅一の推定によると同年末か翌年初頭、大西泰正の推定によると同年10月までに全登は受洗したという。同年10月に秀吉によって再度禁教令が発布され、京都や大坂の多くのキリシタンが捕縛され長崎へ送られて処刑されたが(長崎二十六聖人殉教事件)、この禁教令が発布された直後、詮家・全登は大坂の教会を訪れて2人のイエズス会の宣教師を説得して退避先に逃がしたというエピソードがある。 詮家は従弟の宇喜多秀家に仕えて、2万4000石の知行を与えられていたが、折り合いが悪かった。そのため慶長5年(1600年)1月に宇喜多氏において御家騒動が発生すると、主君の宇喜多秀家と対立することとなる。徳川家康の裁定によってそのまま家康のもとに御預けとなり、直後に発生した関ヶ原の戦いでは東軍に与し、戦後その功績により石見浜田2万石を与えられ、後に同国津和野に3万石(のち大坂の陣の功により加増され4万石)を与えられた。この時、宇喜多の名を嫌った家康より坂崎と改めるよう命があり、これ以降坂崎直盛と名乗るようになった。
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