沼本房家とは? わかりやすく解説

沼本房家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/31 17:23 UTC 版)

 
沼本房家
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正8年(1580年
改名 景直(初名)→房家
別名 通称:新右衛門
主君 赤松氏浦上宗景宇喜多直家
氏族 沼本氏
兄弟 房家、豊国

沼本 房家(ぬもと ふさいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

生涯

沼本氏は美作国南条郡弓削庄の国人領主で、源氏の末裔を称していた。沼本兼家が赤松氏に仕えた事から、歴史の表舞台に現れる事となる[1]

はじめ播磨国戦国大名赤松氏につかたが、]]勢力を伸ばした浦上氏に従い、その知勇兼備の勇将ぶりを買われて重臣となった。ところが、浦上家臣の宇喜多直家が謀反を起こした際に、直家は主君・浦上宗景と景直の離間策を弄し、謀反を疑われた景直は宇喜多氏に帰順して、その家臣となった。

以後は、宇喜多氏の配下として仕え、永禄10年(1567年三村氏家臣・植木秀長の籠もる斉田城攻防戦に参加。また、元亀元年(1570年)、毛利氏家臣・香川光景らの籠もる美作高田城を三浦氏残党と共に攻めて、攻略した。天正2年(1574年)には、浦上氏と組んで宇喜多氏に対抗した三浦貞広と戦い敗れるも、後に和睦した毛利氏の支援を得て貞広を従属させた。その後、宇喜多氏は毛利氏に従属すると、天正6年(1578年)に毛利氏に従い、播磨上月城攻略戦に出陣。この上月城の戦いで、城に籠もる尼子勝久ら尼子再興軍を滅ぼした。

しかし、主君・直家は従属先を織田氏に変え、毛利氏と敵対することとなり、天正8年(1580年)、毛利方の備中国加茂城攻めの最中に、反撃に遭い討死した。

家督は弟・沼本豊国が継いだ。

参考資料

  1. ^ 美作古簡集註解, 第 1 巻 194P




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