高田城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/04 03:03 UTC 版)
三浦氏は高田城を始めとして領地を失い多くの家臣が失領したが、貞広自身はまだ「月田惣領分」(現真庭市月田)に所領を持っており、永禄12年(1569年)6月に忠心に報いて牧清冬に所領を宛がうなどしている。その後、牢人を集めて同年7月に三浦家臣は牧清冬・玉串監物らが中心となって兵を集め、これに芦田正家などが加わり、更には備前から宇喜多直家の家臣の長船貞親・沼本房家・岡信濃守らが参戦して高田城を攻囲した。7月6日には玉串と共に先鋒として高田城を攻撃し、一度退くと見せかけて城兵を誘き出して攻勢に転じ、香川勝雄を討つなど戦果を挙げたが、城攻めでは城兵の反撃で玉串が討ち死にするなど苦戦し7月の攻撃では陥落しなかった。宇喜多勢はこの時浦上宗景との抗争も抱えていて不安定な立場であり程なくして撤退、美作の牢人衆のみで高田城攻囲を継続した。その後、9月から10月頃には宇喜多直家が浦上宗景に再び臣従し、同年10月には出雲国から尼子勝久率いる尼子再興軍の山中幸盛、浦上軍から岡本・長船・明石・斉藤らの援軍が再び参戦し高田城を囲んで攻勢を強め、永禄13年(1570年)にはついに足立や香川を追い三浦貞広が旧領復帰を果たし、三浦軍はその後も寺畑城など高田城の支城群を回復し同年中に一定の勢力を取り戻す事に成功する。 清冬はこの戦いの中で中心人物として活躍し、この合戦後に政務の中心に立った祖父尚春と共に軍事において中心に立つことになった。
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