高田城回復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:17 UTC 版)
三浦氏は高田城を始めとして領地を失い多くの家臣が失領したが、貞広自身はまだ「月田惣領分」(現真庭市月田)に所領を持っており、永禄12年(1569年)6月に忠心に報いて牧清冬に所領を宛がうなどしている。その後、牢人を集めて同年7月に三浦家臣は牧清冬・玉串監物らが中心となって兵を集め、これに芦田正家などが加わり、更には備前から宇喜多直家の家臣の長船貞親・沼本房家・岡信濃守らが参戦して高田城を攻囲した。だが、宇喜多勢はこの時浦上宗景との抗争も抱えていて不安定な立場であり程なくして撤退、美作の牢人衆のみで高田城攻囲を継続した。その後、9月から10月頃には宇喜多直家が浦上宗景に再び臣従し、同年10月には出雲国から尼子勝久率いる尼子再興軍の山中幸盛、浦上軍から岡本・長船・明石・斉藤らの援軍が再び参戦し高田城を囲んで攻勢を強め、永禄13年(1570年)にはついに足立や香川を追い三浦貞広が旧領復帰を果たし、三浦軍はその後も寺畑城など高田城の支城群を回復し同年中に一定の勢力を取り戻す事に成功する。 高田回復後の三浦家政の中心に立ったのが尚春であり、外交においては毛利と対抗するために新たに大友宗麟と同盟を結んで宗麟や家臣の浦上宗鉄・志賀鑑信らと盛んに書状を交わし、内政でも元亀2年(1571年)12月に浦上宗景が三浦氏の所領に段銭を貸す事を決めた時にも宛先は貞広ではなく尚春であった。元亀3年(1572年)には毛利氏より離反した村上武吉率いる能島水軍とも同盟を結び島吉利と浦上や尼子再興軍の動向について書状を交わし、大友宗麟にも馬などを献上する一方で中国地方の動向を事細かに報告し有事の際の協力を求め、大友方から「門司・赤間関出兵」の確約を引き出している。天正元年(1573年)には軍事では山中幸盛の因幡国侵攻に兵を派遣して協力し、外交では大友宗麟・義統親子に硯を送り、純金・煙硝の進呈を受けた。
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