高田商会と余剰電力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/23 02:11 UTC 版)
高田商会は1881年(明治14年)に貿易会社として設立された。創業者は高田慎蔵である。後に高田商会は宮城県栗原郡鶯沢村(現在の栗原市)の細倉鉱山の経営にも関わるようになり、これが高田商会の宮城県との関わりの端緒とされる。高田商会の資本参加により細倉鉱山は高田鉱山とも呼ばれるようになった。この鉱山の所長だった山本豊次こそが、後に宮城電気鉄道の社長となる人物である。 1914年(大正3年)7月28日に第一次世界大戦が始まると、日本では1915年(大正4年)下半期から商品輸出の影響で「大戦景気」と呼ばれる好景気となった。この年、高田鉱山では、軍用需要の高まりをみせていた亜鉛の電気分解に山本豊次が成功した。1916年(大正5年)に猪苗代第一発電所および当時建設中の猪苗代第二発電所に隣接する福島県耶麻郡磐梯村の高田商会大寺精錬所で亜鉛の湿式精錬が開始された。高田鉱山においても亜鉛生産が行われ、1917年(大正6年)および1918年(大正7年)に最盛期を迎えた。1918年(大正7年)に猪苗代から当時の東京府東京市まで高圧送電線が完成し、帝都の電力需要をまかなうことになったため、高田商会はこの代わりに高田鉱山近くの江合水電との間で発電開始後10年間の電力買取契約を交した。 しかし、1918年(大正7年)11月11日に第一次世界大戦が終結すると、亜鉛の需要は激減する一方で、1919年(大正8年)に江合水電からの電力供給体制が整い、亜鉛の精錬用だった電力が過剰に余るようになった。山本は1920年(大正9年)に宮城送電興業と旭紡績の二つの会社を設立して余剰電力の約8割を消費することができたが、余剰電力の約2割に当たる700キロワットの消費先がさらに必要だった。
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