宇喜多との抗争
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永禄12年(1569年)12月、宇喜多直家に寝返っていた植木秀長の討伐を目指して毛利元清・熊谷信直ら毛利の援軍と共に進軍したが、直家が派遣した戸川秀安の前に手痛い敗戦を喫し、元親自身も負傷しながら撤退に追い込まれた。翌元亀元年(1570年)1月には直家と結んだ尼子再興軍の秋上綱平が備中に乱入し、これに松山城の庄高資・勝資親子や植木秀資(秀長の子)らもこれに同調して挙兵し石川久式の守る幸山城を攻め立て、杉山城に篭った細川道薫も敗れるという緊急事態に陥ったが、元亀2年(1571年)2月に庄勝資が不在の隙を突いて毛利元清と共同で進攻し、庄高資を討ち取って松山城・猿掛城を回復。その余勢を駆って佐井田城奪回も狙ったがこれは庄勝資と植木秀資に阻まれ失敗した。。 同年9月に再び植木秀資の守る佐井田城を兄・庄元祐や叔父・三村親成と共に攻めた時は佐井田城への援軍に駆けつけた浦上家臣の岡本秀広や宇喜多家臣の岡家利・花房職秀らの前に敗北し、元祐がこの戦いで戦死した。
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