宇品築港計画
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1881年5月末、千田は内務省(内務卿松方正義)宛に要請し、お雇い外国人ムルデル(A.T.L.R.Mulder:蘭)に現地を視察させ調査・計画策定させる事となった。ムルデルは内務省嘱託1等工師(技師)である。当時のお雇い外国人の中でオランダ人は土木分野、特に河口近くの平野部で堤防の建設や、川底の掘り下げや分水などを行い、洪水予防をする工事や運河を建設したり港湾の建設といった「低水工事」がお家芸であり高く評価されて雇われていた。太田川デルタ河口の遠浅の海での干拓と港湾建設には適任であるといえる。ムルデルは現地を視察し、築港計画のみでは太田川の土砂運搬作用により遠からず土砂が堆積し、沿岸流により漂砂として港湾に流れてくると予想した。そこで築港と同時に宇品島(現在の元宇品)と京橋川左岸の間に堤防を築き、干拓地を作ることになった。 まず京橋川左岸の皆実新開と宇品島の間に堤防を築き、宇品、金輪島両島の間の海峡を大きな船の停泊場とする。第2の工事として停泊場と広島市街を結ぶ車道を作る。第3の工事は、皆実新開と宇品島の間に新開墾地(干拓地)をつくるというものである。
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