工費の膨張と左遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 07:04 UTC 版)
宇品築港計画は試算によると18万余と言う巨費が必要とされた。そこで経費節減のため工費切り詰めが考えられ、備前岡山の吉備開墾社の干拓堤防等で人造石による工法を確立していた服部長七による人造石工法が検討された。人造石による大規模な工事は初めてであるので県の地質課長に問い合わせ、前述の工事等で未だに修繕が必要ないこととコストの兼ね合いで工事発注となった。また千田は工事に必要な土砂を県が現場に直接現物を運ぶようにし、更に工事費を切り詰め、総工費は8万7000円と見積もられた。 工事費は旧広島藩主浅野氏からの士族授産補助金、国庫からの士族授産金と担保として築港埋立地をあてたが、1884年9月に起工したものの災害や潮止め工事の堤防からの漏水による崩壊、労費、資材費の値上がりに常に悩まされた。1886年より広島市近隣では当時の国策事業である海軍の増強に伴う大規模工事での人員不足や、それに伴う資材や賃金の上昇が見られたことも工費の膨張の一因となった。(1886年5月4日に呉鎮守府設置が定められ用地買収と工事の開始、1886年10月1日より東京築地にあった海軍兵学校の江田島への移転工事の開始)。海岸埋立地を宅地として売却、国に対する補助金の申請による2回の国庫からの補助金や千田や服部長七は私財をも投入し1889年11月、5年の歳月と着工時の3倍強の30万円余と言う巨費を費やしてついに宇品築港は完成した。 しかし政府は1889年3月には千田に対し「宇品築港計画ノ粗漏ナリシ為更ニ国庫ノ補助ヲ仰クニ至リタルハ不付合ニ至リタルハ不都合ニ付罰俸年俸十二分ノ一ヲ科ス」との懲戒を科し、更に同年12月、竣功式を前にして千田は新潟県知事に転任させられた。
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