工部卿時代とは? わかりやすく解説

工部卿時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:43 UTC 版)

佐々木高行」の記事における「工部卿時代」の解説

工部省明治3年発足以来長州藩士拠点となっていて、工部卿長州系の政治家交代していた中で、佐々木登用例外だった。これは吉井同じく勤倹思考矯正を図る政府意向があり、佐々木海軍省御用掛もその前段階当たっていた。工部少輔だった吉井前年6月大輔昇進していたが、明治14年日本鉄道社長へ転出内定しており(翌明治15年1882年1月実行され7月井上勝まで空位)、佐々木就任した後は長州派の芳川顕正工部少輔となり、芳川佐々木補佐抑制担当する中で佐々木勤倹西欧化開発事業をどう折り合い付けるか試行錯誤ていったさしあたって大隈明治13年時点計画していた工場鉱山などの官営事業払下げ推進明治15年12月明治16年1883年)夏に工部省方針定めた意見書政府提出した内容は「官営では規則縛られ商業通じない官僚担当するため利益少ない」「事業整理統合して不要な局は各省移管工部省道路港湾など土木事業に絞る」と書いた。勤倹現実適応した場合探り工業政策意義認めつつ官営非効率性と商人癒着批判し大規模な土木事業を国の運営にすべきと結論付けた提案政府採用されなかったが、佐々木構わず工部省改革邁進組織改変工場鉱山払下げ熱心に取り組んだ閣議事業放棄難色示したが、佐々木熱意押され財政難もあり認可深川セメント製造所品川硝子製造所中小坂鉱山長崎造船所阿仁鉱山など多く官営模範工場民間払下げられた。また、1度認められなかった工部省改革案を明治17年1884年3月10月再度提出したが、こちらは結論得られ停滞した一方明治15年7月芳川転出したことを契機工部省実権掌握井上勝工部大輔任命同年8月書記局長林董ロシアへ出張となり留守役の安川繁成実務担当したことは有利に働いた佐々木安川調整して改革案作成に取り組み鉄道敷設全力挙げていた井上支援明治15年2月中山道を通る区間長浜駅 - 大垣駅間、東京駅 - 高崎駅間)の建設上申した井上提案採用したり、明治16年鉄道工事継続中山道路線敷設井上話し合う一方私設鉄道設立極力阻止井上要請基づいて日本鉄道東北本線敷設認可している。 明治18年1885年5月閣議工部省廃止決まり12月伊藤創始した内閣制度業務内容分散電信郵便一体化して逓信省設立鉄道内閣直属となり工部省は完全に解体された。これは大蔵省内務省勢力争い巻き込まれ小規模のため敗北したからとされるが、工部省土木事業専門組織生まれ変わる狙い大蔵省内務省前に否定されたことが原因ともされるいずれにせよ佐々木工部省廃止内閣制度開始と共に閣外去って同年宮中顧問官となり、政界影響力排除され宮中軸足移していく。

※この「工部卿時代」の解説は、「佐々木高行」の解説の一部です。
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