工部卿時代
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工部省は明治3年の発足以来元長州藩士の拠点となっていて、工部卿も長州系の政治家が交代していた中で、佐々木の登用は例外だった。これは吉井と同じく勤倹思考の矯正を図る政府の意向があり、佐々木の海軍省御用掛もその前段階に当たっていた。工部少輔だった吉井は前年6月に大輔に昇進していたが、明治14年に日本鉄道社長への転出が内定しており(翌明治15年(1882年)1月に実行され7月の井上勝まで空位)、佐々木が就任した後は長州派の芳川顕正が工部少輔となり、芳川が佐々木の補佐・抑制を担当する中で佐々木は勤倹と西欧化開発事業をどう折り合いを付けるか試行錯誤していった。 さしあたっては大隈が明治13年の時点で計画していた工場・鉱山などの官営事業払下げを推進、明治15年12月と明治16年(1883年)夏に工部省の方針を定めた意見書を政府に提出した。内容は「官営では規則に縛られ商業に通じない官僚が担当するため利益が少ない」「事業を整理・統合して不要な局は各省へ移管、工部省は道路・港湾など土木事業に絞る」と書いた。勤倹を現実に適応した場合を探り、工業政策の意義は認めつつ官営の非効率性と商人癒着を批判し、大規模な土木事業を国の運営にすべきと結論付けた。 提案は政府に採用されなかったが、佐々木は構わず工部省の改革に邁進、組織改変と工場・鉱山払下げに熱心に取り組んだ。閣議は事業放棄に難色を示したが、佐々木の熱意に押され財政難もあり認可、深川セメント製造所、品川硝子製造所、中小坂鉱山、長崎造船所、阿仁鉱山など多くの官営模範工場が民間に払下げられた。また、1度認められなかった工部省の改革案を明治17年(1884年)3月と10月に再度提出したが、こちらは結論を得られず停滞した。 一方、明治15年7月に芳川が転出したことを契機に工部省の実権を掌握、井上勝が工部大輔に任命、同年8月に書記局長林董がロシアへ出張となり留守役の安川繁成が実務を担当したことは有利に働いた。佐々木は安川と調整して改革案作成に取り組み、鉄道敷設に全力を挙げていた井上を支援、明治15年2月に中山道を通る区間(長浜駅 - 大垣駅間、東京駅 - 高崎駅間)の建設を上申した井上の提案を採用したり、明治16年に鉄道工事の継続と中山道路線敷設を井上と話し合う一方、私設鉄道の設立を極力阻止、井上の要請に基づいて日本鉄道の東北本線敷設を認可している。 明治18年(1885年)5月に閣議で工部省廃止が決まり、12月に伊藤が創始した内閣制度で業務内容は分散、電信は郵便と一体化して逓信省が設立、鉄道は内閣直属となり工部省は完全に解体された。これは大蔵省と内務省の勢力争いに巻き込まれ、小規模のため敗北したからとされるが、工部省が土木事業専門組織に生まれ変わる狙いが大蔵省・内務省の前に否定されたことが原因ともされる。いずれにせよ、佐々木は工部省廃止と内閣制度開始と共に閣外に去って同年に宮中顧問官となり、政界の影響力を排除され宮中に軸足を移していく。
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