条約成立後の経過
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上記のような経緯を経て成立した満洲還付条約であったが、日本政府は強くこれを支持し、交渉にあたった清国の慶親王に対して速やかな調印をすすめた。イギリス政府は、この内容であってもロシアに付与される権益は過大なものであるとして露清両国に再修正を求め、日本の姿勢にはいささかの不満がある旨を表明した。しかし、日本の外務大臣小村寿太郎は、若干の不満があるとしても満洲からのロシア軍の可及的速やかな撤退こそがまずは肝要であるとの見解を示した。ロシアによる満洲占領の恒久化は日本の安全保障にとっては死活を左右する大問題だったのである。日本のマスメディアも『日本』『東京朝日新聞』『毎日新聞』『東京日日新聞』などをはじめ1902年4月の報道で満洲還付条約の成立を歓迎し、そのために日英同盟が果たした役割を評価する論評を掲げた。対外硬はじめ対露強硬論を唱える広範な人士を集めた近衛文麿らの国民同盟会は、日英同盟と満洲還付条約の成立をもって4月27日に解散した。 ロシアは、調印日から6か月後の1902年10月8日には規定どおり第1次撤兵を完了した。ただし、これはロシア正規軍の白い肩章と襟を、財務省の管掌する鉄道守備隊の緑色のものに変えたにすぎなかった。すなわち、兵力を都市域から鉄道区域に移動させたにすぎず、ロシアにあっては正規軍と鉄道守備隊の制服に違いのないことがここでは利用されたのである。とはいえ、このまま、条約が履行されていれば日英同盟によって東アジアの平和を護持する小村外相らの構想が現実のものとなるはずであった。ただし、そうではあっても満洲がロシアの勢力下にあるのは周知のことであり、日本としてはロシアの満洲独占を回避する手立てが必要であった。それが、他の列強とともに北京議定書によって得られた、清国との日清通商航海条約改訂交渉であり、そこでは内河航行事業の拡張や満洲地域における開市・開港が協議された。日本は奉天と鴨緑江の入口にあたる大東溝(現、東港市)の開市・開港を求め、アメリカ合衆国もまた同様の協議においてハルビンと大孤山(現、東港市)の開市・開港を求めた。ここにおいて、日・米は共通の立場に立っていた。 1903年1月13日付の『萬朝報』では、第1次撤兵は「撤退したりと称する軍隊は僅かに服装を更たるのみ」と記し、軍服を改めただけで実際には撤兵がなされているわけではないと報じている。そして2月16日の記事では満洲の重要都市の門戸開放について「均霑(きんてん)」の語を用い、第2次撤兵期限に際してもロシアは表面上は撤兵するかのように偽装するが、最終的には撤兵しないのではないかと解説し、日本政府は清国に対し追加通商航海条約交渉において満洲開放を認めさせようとしている事実を伝えている。『萬朝報』の立場は、満洲の門戸開放要求の方向でロシア軍の満洲撤兵を要求するというものであった。 結局ロシアは、1903年4月8日を期限とする第2次撤兵については、これを履行しなかった。小村外相は、通商航海条約改定に際しては、英米両国との強い連携を指示していたが、これは、ロシア側からすればロシアが満洲より撤退するのに応じて日米など他国の勢力が進出してくるかのようにみえ、ロシア内の満洲撤兵反対派を勢いづかせることにもつながっていた。陸軍大臣のアレクセイ・クロパトキンはもともと、ロシアの勢力圏が保障されるまではロシア軍の満洲駐留を継続すべきであるという意見であり、セルゲイ・ウィッテ蔵相やウラジーミル・ラムスドルフ外相とは対立していた。期限日の4月8日を前にして、3月には牛荘で撤兵準備が進んでいるという情報があった一方で、遼陽から鴨緑江方面に転進しているという噂もあり、また、4月にはロシア兵が鴨緑江岸に到着したとの情報が流れた。4月8日当日、奉天のロシア軍はいったんは停車場に向けて行軍を開始したものの結局各自の兵営に帰った。ウィッテとラムスドルフも結局、北満洲の占領継続はやむをえないという見解に落ち着くほかなかった。このときウィッテが最優先と考えたのは、門戸開放を唱えてロシアの満洲占有を厳しく批判するアメリカが日英同盟の陣営に加わらないことであった。 期限10日をすぎた4月18日、ロシアは撤兵を求める清国政府に対し、第2次撤兵の条件として新たに7項目から成る要求を突き付けた。それは、 ロシアが清国に返還するいかなる土地も、とくに営口および遼河の水域はどんな事情があっても他国に売り渡したり、貸与してはならないこと モンゴルにおける現在の政治組織を変更しないこと 清国はロシアの予告ぬきで満洲で新規に開市開港をおこなわないこと。外国領事の駐在を許さないこと 直隷省を含む北部地方に清朝お雇い外国人の権力を及ばせないこと。どうしても必要な場合はロシア人管理のもと特別の部局を設置すること。鉱山事務のため外国人を雇用する場合も、満洲・モンゴルについてはロシア人技師に委ねること ロシアが北京・営口間に架設している電信線は盛京省にロシアが有する既存の電信線と連結のうえ維持すること 営口の税関をロシアが返還してからも収税金は露清銀行に預け入れること 満洲占領中、ロシア人やロシア企業が正当に獲得した諸権利は撤兵後も有効とすること。営口に検疫局を設置し、税関長と医師はロシア人を雇用すること という条件であった。この要求には、満洲・モンゴルのどんな権益であってもロシアが排他的に独占しようとする姿勢が明白にあらわれており、開市開港場の設定や内河航行権利など比較的穏やかな方法で満洲へ参入しようという日本の手法とは正面から対立するものであった。 小村外相は、このロシアの要求を英米両国に通告し、日・英・米三国の強い抗議に対してはロシアも若干譲歩の方向性を示した。ただし、英米はそれ以上深く追及することはなく、ロシアの満洲撤兵を静観するという姿勢を示した。4月21日、日本国内では伊藤博文・山縣有朋・桂太郎・小村寿太郎の4者による会談がもたれ、6月には御前会議も開かれた。しかし、ロシアは軍備をむしろ増強させて安東県方面に南下させ、5月に入ると鴨緑江の森林伐採権を利用して清韓国境をこえ、朝鮮半島北部の龍岩浦で土地買収を開始した(龍岩浦事件)。満洲撤兵の不履行とロシアの鴨緑江進出とは、ともに日本にとって危機的状況と受け止められた。 ロシア国内では、日本との戦争を避けるために慎重な極東政策を支持していたウィッテ蔵相やラムスドルフ外相らの発言権は弱まり、極東における軍備増強を唱える元近衛士官のアレクサンドル・ベゾブラーゾフを中心とする「ベゾブラーゾフの徒党」が皇帝ニコライ2世の信任を得て勢力を拡大させた。1903年の初めに極東を訪れたベゾブラーゾフは鴨緑江の森林利権に着目し、清国駐在武官のヴォーガクの考えに影響されてウィッテ、ラムスドルフ、クロパトキンの三大臣への挑戦を考えるようになったという。専制国家である帝政ロシアでは、一度得た利権を手放すということは難しかった。1903年5月14日、清国がロシアの要求を拒否すると、6日後の5月20日(露暦4月13日)、帝政ロシアの大臣たちは満洲北部の占領を継続するという結論に至り、満洲還付条約の破棄を決定した。 日本国内では、満洲撤兵が予定通りなされず、かえってロシアの軍備は増強され、さらに撤兵条約が反故にされるに至って、ロシアに対する不安が憎悪と敵意に変わり、6月には七博士意見書の提出、8月には対露同志会の結成など開戦論の動きがにわかに顕著になった。マスメディアの報道にも楽観論は消え、日英同盟無効果論があらわれたり、ロシアへの不信感を煽るようなユダヤ人虐殺の報道もなされるようになっていた。清国内でも、ロシアに対する非難の声が高まった。日本に留学していた中国人留学生たちのあいだでロシアに対する抵抗組織がつくられ、「拒俄義勇隊」と名づけられた。 6月13日、ベゾブラーゾフは鴨緑江木材会社を設立した。8月12日には、皇帝の専断により、蔵相・陸相および外相の預かり知らぬところで旅順(ポート・アーサー)に極東総督府が設置され、「ベゾブラーゾフの徒党」に属するエヴゲーニイ・アレクセーエフ関東州駐留軍司令官(兼ロシア太平洋艦隊司令長官)が極東総督(ロシア語版)に任じられた。8月28日にウィッテが失脚すると、ベゾブラーゾフは日本との戦争を防ぐためには、さらなる極東軍備の拡張が必要であると唱えたが、クロパトキン陸軍大臣はこれに反対し、皇帝はここではクロパトキンを支持した。ニコライ2世自身は日本との戦争は望まなかったが、その無定見さによりロシアの極東政策は混乱の度を深めた。1903年10月8日は本来は第3次撤兵の期限であったが、ロシアはそれを無視して奉天城を占領した。日露戦争の危機はすぐ目の前に迫っていたのである。
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