満洲北部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:08 UTC 版)
「ソビエト連邦による満洲侵攻」の記事における「満洲北部」の解説
北部の守備を担当する第4軍の上村幹男司令官は、8月3日時点でソ連軍の展開を察知し、関東軍総参謀長の許可を得て、事前に作戦準備に取り掛かっていた。璦琿では、南方へ転用されずに残った精鋭である独立混成第135旅団がソ連軍第2極東戦線第2赤旗軍(ロシア語版)の上陸妨害に努めたが、数に押されて嫩江への侵攻を許す。その後は独立歩兵第796大隊と第135旅団の砲兵部隊が、渡河した上陸軍を肉弾戦で迎え撃ち、21日に停戦するまで戦闘が続いた。 T34戦車、T44戦車、IS-2、IS-3とISU-152には迫撃砲が効かなかったため、孫呉の歩兵第269連隊第1大隊600名程は、10 kgの爆弾を持って戦車に飛び込む肉弾戦を敢行せざるを得なかった。15日から転進したソ連軍の孫呉南部への迂回を阻んだ第123挺身大隊約1,300名も、ソ連軍戦車旅団の包囲に対して手榴弾と共に突撃し、7割近くが戦死したが、この奮闘により孫呉への攻撃が回避された。第135旅団は第123師団との通信が取れなかったため、停戦の確認に時間を要し、璦琿の終戦は21日であった。勝武屯陣地の歩兵第269連隊第1大隊も激戦の末、通信不能の中で15日に主力部隊を後退させたが、終戦を知りながらも降伏せず、9月に北安で武装解除を受けるまで戦闘を継続した。 国境付近にある満洲里や孤立した開拓村の被害は特に大きく、避難すら間に合わなかった軍民に多大な犠牲または抑留者が出たが、ジャライノール地区の居留民は鉄道で避難できた。 満洲西部から進軍した目標地点の一つ、ハイラル (海拉爾) の南北10km、東西15kmに及ぶ陣地は、本来は3万の兵力で守備するところ関東軍の守備兵力縮小に合わせて、独立混成第80旅団5,000名が守備に当たることになった。9日朝、ソ連軍機がハイラル市街を空襲したため旅団長の野村登亀江少将は、隷下部隊に緊急配備を指示したあと要塞に入って指揮に当たった。ここにはソ連軍5個師団と戦車1個旅団が侵攻したが、大砲を持たぬ日本側は遊撃戦に頼る他なかった。ハイラル陣地では18日朝に武装解除するまでにおよそ1,000名の戦死者を出した。西口には9個師団、戦車1個師団、戦車2個旅団が押し寄せ、これに対峙したのは第107師団歩兵第90連隊のわずか1,000名あまりだった。
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