水運事業
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国鉄に特有の珍しい附帯事業である。ここでの「水運」とは船を用いて河を航行する舟運のことで、満洲北部、いわゆる北満から沿海州方面に横たわる大河、松花江や黒竜江、ウスリー江を上り下りするものである。その規模は連絡船程度のものではなく、起点から終点まで3日から長い場合11日かかるほどの大規模なものであった。 このような舟運事業が始まった背景には、これらの河が大きな船の航行に適する大河であること、そして松花江が黒竜江の支流ながら北満の穀倉地帯を横断しており、鉄道では回収しきれない貨物収入が見込まれることにある。 これらの河における舟運に列強が関わった歴史は古く、1854年にロシアが黒竜江を通商に用いたのを嚆矢とする。1858年にロシアは璦琿条約によって、さらに松花江の航行権も獲得し、自国領内のウスリー江と合わせて70年近くロシアがその利権を握っていた。 ここに鉄道と同じく1920年頃から奉天軍閥によって「利権回収運動」が始まり、1924年に松花江のロシア船航行が禁止され、1926年には全ての船舶と埠頭が奉天軍閥側に没収された。奉天軍閥ではこれを「東北海軍江運処」に管理させ、さらに「東北航務局」に経営委託するようになった。またこの他、奉天軍閥江防艦隊に「広信航業処」という水運部門があった。 奉天軍閥が崩壊し、満洲国が成立するとこれらは鉄道同様満洲国交通部がその利権を受け継ぐことになり、1933年3月1日の鉄路総局発足と同時に経営委託されることとなった。この時点で満洲事変などのために、各河川の船の航行はほぼストップしており、鉄路総局ではまず哈爾浜-大黒河-漠河間という、松花江を下り黒竜江を上る航路を復活させた。またこの年、民間船が過度の競争をしてつぶし合いになるのを防ぎ、河川の舟運を統制するために「哈爾浜航業聯合会」を組織している。 翌1934年には、東北航務局・広信航業処など奉天軍閥当時のままであった部署を「哈爾浜水運局」へ統合。また航路も延び、哈爾浜-虎林間という松花江・黒竜江を下りウスリー江に入る航路が復活。また松花江の上流側にも扶余・吉林などへ航路が延びた。 1940年の時点では哈爾浜・佳木斯・黒河を中心に路線が設定され、哈爾浜-富錦が所要4日間で毎日運航、その他は月に6往復から19往復までさまざまであった。
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水運事業
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華北交通の業務には鉄道・自動車の陸運事業だけでなく、内水河川での水運事業も含まれていた。華北交通による水運事業は1939年(昭和14年)9月に小清河の済南付近で旅客営業を開始したのが始まりで、同年10月には南運河・子牙河・東北河の天津付近でも旅客輸送が始まった。当初は汽船による営業であったが、後に華北地域の民間ジャンク船を統制し運用するようになった。1943年(昭和18年)10月末には旅客輸送航路の総延長は2529km、貨物輸送航路の総延長は4213kmに達したものの、河川水位が不安定なために船に貨物を満載できず、輸送効率は低かった。水運事業の輸送実績は不調であり、合理化を図ってもなお年々赤字が拡大したため、1945年(昭和20年)3月からは民間ジャンク船の統制を取りやめて自由化し、華北交通による水運事業は会社所有の船による軍用・社用品の輸送のみに縮小された。
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