開削の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 14:05 UTC 版)
1910年(明治43年)の荒川大洪水で東京が壊滅的打撃を被ったことから、翌1911年(明治44年)に開始された荒川放水路の建設事業が完成することで、東京の治水は一応の安泰をみた。 しかし荒川放水路による中川の分断が、北関東の穀倉地帯と東京を結ぶ水運事業に大きな支障を発生させることとなった。当時の舟運は穀倉地帯からの食糧の輸送だけでなく、都心から出された大量の糞尿を農耕地帯へと肥料として送り出しており、最盛期には3,800隻近くの運搬船が行き交っていた。 この荒川放水路を越えるために旧中川に設けられた木下川水門で船の大渋滞が発生、その後の小名木川閘門と船堀・小松川の二つの閘門の完成後も渋滞は解消されることはなく、東京の舟運における大きな足かせとなった。 荒川放水路完成後の運搬船経路:中川(古利根川)→中川水門(葛飾区東四ツ木)→荒川放水路→木下川水門(墨田区東墨田)→旧中川→北十間川→向島→隅田川 一方で綾瀬川を下る船は船堀の綾瀬水門から出て荒川放水路を横断し、千住曙町の隅田水門から隅田川に入ればよく、船の動きもスムーズで渋滞も発生することはなかった。そこで1925年度計画に急遽花畑運河の開削工事の実施が決定され中川の船を綾瀬川に流すようにした。花畑運河の開削事業は用地取得の完了した1927年(昭和2年)に竣工し、荒川放水路の竣工に半年遅れた1931年(昭和6年)12月に完成した。
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